其の三 ふたりの名前

 凶つ星は、少女の名前を知らなかった。

 星が降る夜空を見上げながら息を吐く傍らの少女を見つめながら、彼はずっと鼻をすすった。

 

 冬の夜だ。

 流れゆく星々は、空の王ファーレンテインに討ち滅ぼされた無数の悪意たちだ。

 王たちが権勢を増すごとに民や敵対する神々の敵意は増し、やがて凶つ星と呼ばれる存在を作り上げた。だがそれでも有象無象の悪意は膨れ上がり、そうしてまた空の王は夜空にそれらの死骸を打ち上げるのだ。

 

「悪趣味な男め。大地の王ドラホミールですらこんな真似はしないだろうに」

 

 自らの支族の悪口だというのに、少女は何も言わない。胸が苦しいというのはどうにか薬で何とかならないものだろうか。古今東西の薬師を集めたが、しかし彼女の症状は一向に良くなることがなかった。

 最近ではこの静寂すら心地よい。

 凶つ星は好んで少女の側に立つようになり、少女もまた彼に寄り添うようにその肩を彼の体にくっつけていることが多くなった。

 

「……俺は、君の名前を知らないな」

 

 白い息を吐きながら、凶つ星はしんみりと呟いた。

 今宵散っていった悪意の死骸たちがひとしきり流れ終えた後、星のない夜に銀鼠の光がきらめく。

 

「私も、あなたの名前を知らない」

「俺はもう、長いこと凶つ星と呼ばれている。本当の名前で最後に呼んだのが誰だったのかすら、思いだせない」

 

 はじめは誰かがその名を呼んでいたはずだったのだ。

 凶つ星が、凶つ星と呼ばれる前。もう百年も六神竜王と戦っているのだから、それと同じころかもしれない。あるいは、ずっと前か。

 凶つ星は目を細めて、首を横に振った。記憶が定かでないというのはそれだけで不安になるものだ。

 

「あのね」

 

 少女が息を吐くように呟いた。

 喉がつかえるというその病状に薬は効かないが、命に別状はないらしい。

 

「名前、ないの。ねえさまにも名前を呼んでもらったことがないから」

「名前を呼んでもらえない?」

「二の君って、呼ばれるだけ」

 

 夜空が僅かに重みを帯びる。というのも、 月の王と太陽の王がいがみ合っているらしい。竜王たちの仲がこれでは、瓦解ももうすぐだ。

 

「二の君……君は本当に貴い身分の女性だったんだな」

 

 その割に軽んじられていたというのだから、やはりファーレンテインが何を考えているのかはわからない。

 否、あの竜王どもが考えていることなど分かってたまるかというのが、率直な気持ちだった。

 

「なら、いつか君の名前をつけてやろう。俺が納得いく名前をつけてやるから、誰かに呼ばれた名があるのならすぐに忘れてくれ」

 

 持ち物に名前を書いておこう。

 それくらいの簡単な考えでそう付け加えた言葉に、何故だか少女は赤交じりの金眼をきらめかせた。

 彼女は言葉より、表情の方がずっとわかりやすい。

 

「待ってる。あなたが呼んでくれる名前のこと。宝物にするね」

 

 最後に一つ、流れ星が落ちた。

 今こうして生きているということは、落された星は自分ではないのだろう。寒気に目を閉じながら、星と少女はまたそっと寄り添った。