其の二 静寂と海

 少女は喋らなかった。口がきけないのではなく、口をきかないのだ。最初の日が嘘のように、何も言わない。

 凶つ星が語り掛けても彼女は鬱金の瞳をちらりと向けるだけで、結局何もないように別のことを始めてしまう。

 よもや、あの日聞いた彼女の言葉は幻だったのではないか――魔術に長けた空の王の一族ならば、自分を欺くことなど容易いのではなかろうか。

 

 そう疑念の視線を向けても、彼女は何も言わなかった。

 黙々と飯を作り衣服を繕い、君は俺の母親か、と何度か問うたこともある。無論答えはなかった。

 

「どこか行きたいところはあるのか。西の大海だろうが、連れて行ってやるぞ」

 

 少女は答えなかった。凶つ星もそこまで口が達者なわけではないから、彼女の名前を聞くこともないままただ時間だけが過ぎていく。干からびたような城に二人きり、会話をするわけでもなくただ食事をしてねむるだけの日々が続いた。

 

 それでも凶つ星は、少女を海に連れ出した。六神竜王の一人である、海の王エーレンフリートが統べる大海は東の海だ。西の海は竜王たちに見放された混沌と憎悪のるつぼである。それでも竜王たちがいないだけマシだ――陰惨とした西の海に少女を連れ出すと、彼女は水辺で足を濡らして遊んでいた。

 

「海が好きなのか」

 

 答えのない問いだというのは分かっていたが、凶つ星は何の気なしにそう聞いてみた。

 

「……ねえさまが、好きだから」

 

 か細い声に、思わず凶つ星は目を見開いた。

 家族がいたのか。竜王の支族だということは知っていたが、近しい肉親の話はちっとも聞いたことがなかった。距離感を確かめながら、彼は真紅の目を細めた。

 

「姉がいるのか」

「ねえさまと、ねえさまの旦那様……ファーレンテインさまが」

「君は、ファーレンテインの義妹だったのか」

 

 近しいどころの話ではない。強い魔術の力や呪術的な媒介を血液でまかなうため、近親婚というのはそう珍しいことではなかった。ファーレンテインに7人の妻がいるのは知っていたし、その多くが自らの支族であるというのも有名な話だ。だが、まさか目の前の少女が彼の妻の肉親だったとは。

 

「ならば国内での地位もさぞ高かったのだろう。たかが目の色で追い出されるとは思えないがね」

「本当は、ねえさまがここに来るはずだったの。魔術だって私よりうんとうまく使えるし、あなたを殺すのなんて容易いもの。でも、ねえさまは生まれてからずっと王様と番うことが決まっていたから」

 

 波が寄せて、返す。

 足元を濡らしながら、少女は攫われていく砂粒の為に涙を流した。姉が空の王と婚姻を結ばなければ、彼女が贄として差し出されることはなかったのだろう。

 

「女を送り込んで俺を殺すか。なるほど、あの男の考えそうなことだ……だが俺はそうそう死なない」

 

 少女は空を仰いで黙り込んだ。空の竜王が住んでいたのは雲よりもはるかに高い場所であると聞く。

 凶つ星は自らが濡れるのも構わずに浅瀬に足を踏み入れ、少女の腕を引いた。彼女が水と一緒にとけていなくなってしまうのではないか――そんな幻惑を見たからだ。

 

「苦しいね、お星さま。ずっとね、喋ろうとしても苦しいの。喉がつかえて、声が出なくなる……」

 

 泣きそうな声でそう呟くのを、凶星は後ろからそっと彼女の背を抱いてやった。弱々しい目の前の少女が自分を殺すことはおそらくできないだろう。

 世界中のどこにも居場所がないのは彼だけではない。彼女も同じだった。

 

 波間に消える涙を見送りながら、星はしばらく彼女の体を離さないままでいた。