海風の塩辛い匂いが、鼻の奥の方をくすぐっていくようだった。髪がべたべたになるから私は海風が好きじゃない。南国みたいに綺麗な色じゃない海も、マウマウと五月蠅いばかりのカモメも、浜言葉も嫌いだ。

「ヤエ、放課後どこ行く?」
「ごめん、私バイト」
「またかよ! アンタバイトして何するつもりなん」
「……軍資金かなぁ」

 どうせ出かけるところなんて寂れたゲーセンくらいしかないんだから。
 音の外れたクレーンゲームで遊ぶよりは、類さんから話を聞いた方が楽しい。私はぶーたれる友達を放ってそのまま学校を飛び出した。
 学校の外に出れば潮の臭いは尚更きつくなって、思わず眉を寄せる。打ち上げられた魚を取りがついばむ様子は通学路から見ることが出来た。夏になれば、コレも臭いの原因になる。

 どうしてなんだろう。
 類さんの家は私の家とは全然違って、本の匂いと少し甘い香りがするのに。私の家は、この小さな町は、魚と潮と色褪せた臭いしかしない。
 そう思うと自分の家が凄く窮屈に思えて、私は制服のまま類さんの家に飛び込んだ。

「こんにちは、今日は早いんですね」
「……これから買い物行ってきます。類さん、ジャージとか持ってません?」
「あるけど、どうしました? 制服、汚しちゃったの?」

 玄関を勢いよく開けると、奥の部屋から類さんが顔を出した。
 中に入った途端に、いかにも「他所の家」っていう静かな匂いに包まれる。お線香の匂いでも消臭剤の臭いやつとも違う、自然な香りだ。
 挨拶もそこそこに彼の部屋まで滑り込むと、小さなテーブルの前に座る類さんを見上げる。

「私、くさい」
「は? そんなことないと思いますけど……あぁ、体育?」
「くさい。私、潮の臭いがする」
「潮?」

 なんだか何もかも嫌になって、私は類さんに思いのたけを全てぶつけてみた。
 この町が嫌いだ。町を包む空気も、臭いも、風景も何もかも嫌いだ。
 堰を切ったようにあふれ出した自分の思いを出会って一か月もたたない他人にぶちまけるだなんて、自分でもバカみたいだと思う。
 思うけれど、誰かに言わなければ潰れてしまうような気がした。何を言っても笑ったり怒ったりしない人。私にとってのそれは類さんだった。


「ねえ、弥重奈さん。こう考えてみませんか?」

 息切れをしながら話し終えると、類さんはテーブルの上に置いてあったメモ帳を取り出した。チラシの裏を使った簡易メモ帳。私もよくやるけど、類さんがそんなことをするイメージがない。

「それ、作ったの?」
「はい、暇だったので。――そうそう、弥重奈さんは潮の臭いが嫌いなんでしたね。でも世の中、これはあんまり嫌なものだと思われていないんですよ」

 綺麗な装飾を施されたボールペンで、安っぽいチラシのメモ帳に書かれる文字は美しい。そのアンバランスさがいつにも増して目につく。
 ちょっと歪な紙には、「磯の香り」と大きく書かれていた。読めますか? なんて、馬鹿にしてる。

「いそのかおり」
「そう。大体の人はこう表現するんじゃないかな。いわゆる都会の人間は、わざわざこれを求めて海にやってくるんです」
「なんで、そんなのいらないじゃん」
「懐かしいんですよ。きっと人間の本能がそうさせる。生物は皆海から生まれたって、知ってますか?」

 何となく聞いたことがある。
 呼吸も落ち着いたところで類さんを見ると、彼は至極真剣な表情でメモ帳に視線を落としていた。
 友達みたいに笑わない。先生や家族みたいに怒らない。
 類さんは大人なんだ。都会の、大人のひと。

「弥重奈さんはまだ町から出たことがないから、きっと気付かないだけだと思うな。多分弥重奈さんが大人になって、町から出て、そしてようやく気付くと。僕はそう思いますね」
「嘘だ。私、海なんて好きじゃないもん。懐かしくなんてならない」
「なりますよ。僕だってそうだ。故郷という意味での田舎は僕にはないけど、ここに住むことを決めたのは、ここがどこか懐かしいと思えたからなんですよ」

 故郷がない。
 見上げた類さんの顔は少しだけ寂しそうで、何も言えなくなった。住んだこともない場所を懐かしく思う気持ちは、私には理解できない。
 
 いつか、そう思えるのだろうか。

 どの辺りからかは分からないけれど、話を聞き終えた時にはあらぶっていた感情は綺麗に落ち着いて、夕飯のことを考える余裕も出来た。トンカツでいいかな。いろいろ考えて、魚は少し見たくなかった。

「今日、トンカツにしますね」
「いいですねぇ。どうせならソースかつ丼をお願いしようかな。ご飯は」
「山盛りですね」

 ジャージは借りないで、渡された五千円札を受け取って私は買い物に出た。なるほど、磯の香りだって、そう考えたら少しだけ気分が楽になりそうだった。

 

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