「夕飯、出来ましたけど」


 その日類さんは、一度も奥の部屋から顔を出さなかった。
 大切な〆切が重なっているらしく、昨日見た時は髭も剃ってないボロボロの状態でやっとこさご飯を食べていたことを思い出す。


 まさか部屋で死んでいるんじゃないか、なんて不吉な考えが頭の中を支配し出して、出来上がった料理を盛り付ける前に部屋の前の廊下で何度か呼びかけてみた。

 廊下は暗いし、古さも相まって不気味だ。おばあちゃんが住んでいた頃に何度も泊まりに来たことがある家だけど、小さな頃は絶対にオバケが出ると信じて疑わなかった。


「類さん? 開けていいですか?」


 立てつけの悪い引き戸がギコギコと背筋が寒くなるような音を立てる。それにもめげずに強引に戸を開くと、意外なことに部屋の中はきちんと電気がついていた。
 ただ、部屋の中はひどく散らかっている。書き損じの原稿用紙に、一応書きあがったと思われる綺麗なもの。埃が浮いたコーヒーは何日前のものなのか見当がつかない。
 そしてそんな混沌とした部屋の中で、類さんは頭を抱えながら必死にペンを動かしていた。背後からでもわかるくらいの速さで、右腕が揺れている。


「類さん、ご飯食べられます?」
「あ、え、もう夜……あー、もう少ししたら食べます。あのちょっと、もう遅いですし今日は帰って構いませんよ。何も出来なくて申し訳ないけど、僕もちょっと人様に顔見せられる状態じゃないっていうか」
「じゃあ、鍋に入れておくんで。火にかけないで容器に移してから、レンジて温めてください」


 類さんに火はいけない。以前炊飯器を溶かしてしまった前科は消えることはないのだ。申し訳なさそうに後ろ手で手を振る背中を横目に、私は家路についた。


 次の日の夕方、鍋に作っておいたはずの味噌汁は一口も減っていなかった。
 否、一口くらいは飲んだのかもしれないけど、お茶碗一杯や二杯といった量は確実に減っていない。ご飯の保温時間も20時間に達していて危険だ。普段食事をとるテーブルの上には、漆塗りの箸が一膳寂しそうに横たわっている。


「類さん!」


 これは、本格的に命が危ないかもしれない。
 慌てて類さんの仕事部屋に転がり込むと、そこは昨日よりも汚くなっていた。散らばっている紙の上に、あの汚いコーヒーがぶちまけられているのだ。


 なにより、類さん。

 くたびれたジャージに無精ひげの推定類さんは、部屋のど真ん中で大の字になって倒れていた。胸

は上下してるから、生きてはいるらしい。

「類さん、類さん! 寝てないで起きてください、風邪ひきますって」
「んー……あ、山口さん? 原稿上がりましたよぉ……あれ、弥重奈さんだ」


 焦点の合ってない目で笑われても恐怖しか覚えない。しばらくしてキョトンとした表情の類さんが起き上がると、そのお腹が盛大な音を立てて空腹を主張した。
 そうだ、この人昨日から何も食べてないはずなんだ。


「類さん、ご飯食べなかったでしょ」
「いや、食べるつもりでした。温めて食べてって言われてたのは分かってるんですけど、分かってるんですけど……原稿上がって、気付いたら今で」
「お粥作りますね。いきなり固形物食べて吐いちゃっても困るんで」
「かたじけないです」


 私は類さんのお母さんか。
 お米からおかゆを作るのはちょっと時間がかかるので、ご飯からで我慢してもらう。流石に味がないと寂しいだろうから鰹節とごま塩を振りかけて、漬物と一緒に出そう。
 梅干しは刺激になったら困るから今回は出さないでおいた。


 三日風呂に入らなかったという類さんだけど、空腹でお風呂なんかに入れて倒れられたら私にはどうしようもない。とりあえずご飯だけは食べてくれと用意したお粥とお茶を出せば、彼のその人の良さそうな顔は情けなく歪んだ。


「ありがたいです……本当に弥重奈さんがいてくれてよかった!」
「これまでどんな生活してたんですか」
「ここまで〆切が差し迫ったのも久々で。一人暮らしだと今頃僕野垂れ死んでたかもしれないです」


 縁起でもないことを言ってから一気にお粥を流し込み始めた類さんは、本当に幸せそうな顔をしていた。
 食べることに関して、この人は実に楽しそうだ。この顔を見ていると全く作り甲斐があると感じるし、綺麗に完食してもらえると嬉しい。
 家じゃなかなか、こうはいかないものだ。


「お風呂、お湯張っておくんで自分で入ってくださいね」
「嫁入り前の娘さんにそんなことさせてしまって本当に申し訳ないです……」
「じゃあ明日買い出し行くんで、手伝ってくださいね」
「わかりました、久々にバイク出しますよ」


 バイクなんて持ってたんだ。知らなった。
 ここに通い始めてから結構経つのに、類さんのことで知らないことは沢山ある。例えばバイクに乗るんだってこととか、書いている小説のこととか。
 冷え切ったタイル張りのお風呂にお湯を溜めながら、私はそんなことを思っていた。

 

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