「何ともお恥ずかしい話ではあるのですが、僕は自炊が苦手でして。この前も、炊飯器の上にフライパンを置いて溶かしてしまったんです。このままじゃあいけないってんで、この度大家さんにも色々とお願いをしてみたのですが」

 生成り色のシャツに、黒いパンツ姿。ジャージと黒い長靴がスタンダードな田舎町ではありえないほど「都会的」な組み合わせに、私はぽかんと口を開いたまま何も言えずにいた。一人称にしたって、「僕」なんていかにもなものを使う人間はこの街にいない。
 目の前の男は、まさしく私が憧れていた「都会の人間」そのものだった。

「お名前、ヤエナさんっていうんですか。珍しいですね」
「……本当は、八重ってつけたかったらしいんですけど。ちょっと古臭いっておばあ……祖母が反対したんです。だから漢字も変えて、弥重奈って」
「なるほど。八重という言葉も僕は好きですよ。でも、いやぁいい名前だ。お祖母さんも随分ハイカラですね」

 彼が住んでいるのは、広さだけはある家だった。平屋建ての母屋とトタン張りの屋根が寒々しい離れがセットになっていて、海風が吹き付けては轟と音を立てる古い家だ。名前の件でごねた私のおばあちゃんがウチで同居することになってからはずっと貸し出し中だった。
 そこにこの春から入居が決まったのが、目の前の「先生」である。私も名前は知らないけど、町の人からは「先生」と呼ばれていた。だから私もそれに従っただけだ。

「あの、何すればいいんですか。ご飯作って、お掃除して?」
「はい。僕の部屋なんていつも散らかってますから、紙くずとかを捨てていただければ。アナログな人間なもので、原稿はいつも手書きなんですよ」
「原稿?」
「あぁ、物書きなんです。皆さん僕を「先生」なんて言うから、弥重奈さんも教師だと思ったでしょう? でも事実、そこまで売れてない物書きでして。貫禄だすのに着流しとかどうかなぁ、なんて」

 早口でまくしたてる「先生」に、私の耳は言葉の意味を捕らえることが出来なかった。ぽかんとした顔を返せば、気の弱そうな優男は視線を逸らしてさらに笑う。何処か困っているような笑い方だった。

 しかし話を聞いてみれば、確かに私がすることは夕食の用意と部屋の片づけくらいで、あとは部屋を用意するから空いた時間はそこでくつろいでいてくれとのことだった。学校のない土日に限っては、昼食も作ってほしいとも付け足された。
 売れない物書きという割には、身なりもきれいだし働く条件も悪くない。何よりお給料が結構いい額で、顔がにやけそうになる。

 こんな田舎じゃコンビニだって求人がないし、時給も低い。これじゃあ夏休みに街まで遊びに行ったって、すぐに使い切ってしまうのが目に見えていた。

「弥重奈さん、お幾つですか? 高校生?」
「高校一年生です。16歳」
「あぁ、若いですねぇ。いいなぁ」

 今度はゆっくりと、噛みしめるようにそんなことを言う。やや茶色がかった髪をかき分けながらポリポリと頭を掻くと、「先生」は対面から少しずれて深々と頭を下げた。

「それじゃあ、よろしくお願いします。弥重奈さん」
「あっ、よろしくお願いします……えぇと」

 名前を知らなくて動きを止めた私に、彼はまた困ったように笑ってポケットからメモ帳を取り出した。物書きって言ってたし、やっぱりこういう者は持ち歩いているのだろうか。

「僕の名前なんて弥重奈さんに比べるとなんだか貧相なんですがね、藤野類といいます。漢字は、こうですね」

 書道の先生みたいにきれいな文字。読めりゃいいっていうこの辺の大人とは全然違うそれは、どこか輝いているようにも思えた。思わずそれを受け取って、ポケットに仕舞いこむ。家に帰ったら私、きっと文字の練習をするだろう。

「あの、よろしくお願いします。藤野先生?」

 そうするといよいよ学校の先生みたいで、今度こそ彼と私は二人で笑っていた。藤野が面倒なら下の名前で呼んでも構わないと言われたが、「先生」とだけは呼ばないでくれと念を押された。類さん。フランスの王様でも同じような名前の人がいたはずだ。
 外国人みたいな名前は殊更に私の琴線を刺激した。都会からやってきた小説家。なんて素晴らしい響きなんだろう。

 黄ばんだ畳の部屋でさえなんだか洗練されて見えて、私は浮足立ったまま類さんの家を後にした。

 

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