詩人王子の無垢な恋


 とある世界のとある大陸に、アルテムという小さな国がぽつんと存在していた。
 芸術国家であるアルテムは周囲の軍事国家に引けを取らぬ様、婚姻や条約で身を固め、時には王族を他国へ人質に差し出しながらもその小さな体を守っていた。

 時の国王、シェイルダー3世の御代も、それも全く変わりはない。
 王太子は幼少時から城に幽閉され、王女たちは皆大国の有力貴族に嫁いだ。王子も上から二人は隣国の国王の元に人質に取られていた。
 末のクォレルム王子は唯一父王の元に残されたが、それも政治的な利用価値が皆無であるとの理由からである。

「お父様、お話を聞いて下さいませんか」
「おお、どうしたんだい私の可愛いセオリア。何でも言ってごらん」

 セオリアが暮らしていたのは、そんなアルテム王国の隣。軍事国家イシュクラム公国であった。
 爵位は男爵位と低いが、セオリアの実家は海運貿易で莫大な利益を生み出す商家である。父は一人娘の彼女を溺愛していたし、見目の麗しい母そっくりに生まれたおかげか生まれてこの方不自由をしたことがない。

 今日も舞踏会に出向くというので、父が彼女に新しいドレスを見繕ってくれていた。

「わたしは、クォレルム王子に会いたいのです。詩歌に長じ、あらゆる分野の学問に秀でていると執事に聞きました。是非わたしも、王子のお話を聞いてみたくて……」

 それは年頃の少女としてはごくありふれた、けれど貴族の子女としてはどこかずれた願いでもあった。
 確かにクォレルム王子は隣国の王家の血筋だが、王位の継承権は宰相よりも低く母親の身分も低い。父王にも疎まれているとの噂も聞こえてくるほどだ。

 この国で貴族の娘と言えば、自分の家よりも遥かに高い家格の家に嫁ぐことがステータスとされている。セオリアの母も祖母もその例には漏れず、父は大公の弟である将軍閣下と娘の結婚を目論んでいた。

「しかしセオリア、クォレルムは王位継承権も低い。それに詩歌なんぞ吟じても一銭の得にもならんだろうに。お前にはもっとふさわしい人がいるはずだ。我が家よりよほど金持ちで、家柄も尊く、お前を死ぬまで贅沢をさせてくれるような家が」

 生来気の弱いセオリアはいつだって父や母の言うとおりに暮らしてきた。
 乱暴者の将軍閣下と二人きりで出かけることも、まるで見世物のようにパーティや舞踏会に連れていかれることもいつも我慢している。

 今日の舞踏会だって、本当は行きたくなんてなかった。けれど父はもしかすれば将軍閣下以上の大物が釣れるのではないかと考えているし、母は女として生まれた以上はあらゆる舞踏会に出向くことこそが至上の命題だと考えている。

「お願い、お父様。先日乳母に聞いた王子の詩があんまりにも美しくて、一度でいいから会ってみたいのです。これ以上の我儘は言いません。明日からはお父様たちの言うように生きるから、たった一度だけ……」

 きゅっと唇を噛み、まるで真珠の涙でも零すのではないかと思えてしまうようなセオリアの表情に、父は慌てて両手を振った。

「ああ、泣かないでおくれセオリア! 他ならぬ可愛いお前のお願いだ。無論叶えてやるとも」

 ただし、と父は抜け目なく目を光らせた。
 娘に甘いだけの父親では、家を保つことはできない。貴族として父の生き方は正しいのだろうが、セオリアはいつもそれを見ては辛い気分になっていた。

「ただし、舞踏会が終わったら明後日は将軍閣下と共に晩餐会に出かけるんだ。いいね、セオリア?」
「……お父様がわたしのお願いを聞いてくださるのなら」

 それがセオリアに出来る、精一杯の強がりだった。
 こういう時はいつも、姿だけではなく心までも母のように強く生まれたかったと願う。愛人が両手で数え切れないほどいる美しい母は、厳しくもあったがそれ以上に自分の意見をはっきり言う人だった。ああいう生き方がしたいかどうかは別として、そこは純粋に憧れる。

「いいとも。さあ夜まで休んでいなさい。ドレスも気に入ったのを選んでおくんだよ」

 そうしてセオリアは部屋に一人残された。乳母を伴って部屋に戻ると、そこには一冊の詩集が置いてある。
 件のクォレルム王子の詩集だ。つい先日第一詩集が出たばかりのを、彼女は乳母に頼み込んで一番に買ってきてもらった。

「クォレルム王子に会えるのね……こんなに優しい詩を読む方だもの、きっと人となりもお優しい方に違いないわ」

 王子の年は17で、セオリアよりも2歳ほど年上だ。
 けれど柔らかな表現や美しい言葉選びは彼をぐっと大人に思わせる。詩集を胸に抱いたまま、セオリアは迎えの馬車がやってくるのを心を躍らせて待っていた。

 やがて日が落ち、セオリアが乳母の手を借りて薄水色のドレスをまとった頃。父と、珍しく母がやってきて彼女を手招きした。
 母は胸のあたりが大きく空いた真っ赤なドレスを着ていて、年よりもずっと若く見えるその顔にはこれまた真っ赤な口紅を引いている。

 父は年相応の格好ではあったが、こちらも小物に純金をあしらったりと、富と美を見せつけることには余念がない。

 その中で一人セオリアだけが大人しい格好で、母にはもっと素材生かせと残念そうに言われてしまった。

 馬車に乗ると、街の明かりが窓から僅かに零れ落ちてくる。
 セオリアは何も言わず、多々胸の奥に少しばかりの希望を胸に抱いて舞踏会への道を向かっていた。

「将軍閣下には後でご挨拶に向かうんだよ」
「ありがとうございます、お父様」

 会場に着くや否や、セオリアは人込みを縫ってクォレルム王子を探し始めた。
 王子の容姿は美しい鳶色の瞳に、淡い金色の髪をしていると聞いている。
 会場の端から端を探してようやく彼女が見つけたのは、大公閣下に誕生日の祝辞を述べている青年の姿だった。

 噂通り、緩く結われた金色の髪に飛び色の目をしている。
 声は思っていたよりも少し低くて、祝辞を読み上げる声はどちらかと言えば玲瓏なものだった。

「イシュクラム大公閣下のお誕生日を、父王や兄太子に代わり謹んでお祝い申し上げます」

 ちょうど祝辞を読み終えた王子は壇上から辞し、また人の波の中へ戻っていった。
 見失わないようにとセオリアも視線で彼を追い、背中を見詰めながら彼に近づいていく。やや緊張したような面持ちの王子は、給仕から葡萄酒を受け取り口を付けていた。

「……あなたは」
「わ、わたくしはセオリア……セオリア・シュティフクランと申します。その……クォレルム王子、ですよね? アルテム王国の、末の王子様」

 クォレルムは一瞬だけ訝しげに首をかしげたが、ややあって小さく頷いた。
 金色の髪がその動きに合わせてふわりと揺れ、淡い花のような香りが漂ってくる。

「いかにも、僕……いえ、私がクォレルム・リア・アルテーミオ第五王子です。シュティフクランというと、海運貿易のシュティフクラン社の方ですね?」

 クォレルムはまっすぐにセオリアを見詰めながら話出した。
 詩を読み、噂話に聞くよりもずっと男性らしい声だ。四肢は細かったが、バランスよく長さがあるからかさほど気にならない。

「父王が体調を崩しておりまして、兄はその代理で執務にかかりきりなのです。末弟の私が二人の名代としてこのような場に出るということが、分不相応なのは分かっていましたが――なにとぞお許しいただければ」

 そう言って、クォレルムはセオリアに腰を折った。
 あまりに丁寧な謝罪にセオリアも驚き、そして顔を上げるようにと懇願する。彼女が王子に会いたかったのは、彼の詩集に感動を受けたからだ。
 一度その作者と話がしてみたかったと言えば、クォレルムはそこで初めて笑顔を見せた。

「あれを、読んでくださったのですね」
「はしたないとお笑いにならないでくださいね? その、発表前に少しだけ、クォレルム様の詩を読ませてもらったんです。それで詩集が出ると聞いて……わた しが買いに行くことはできないので、乳母に頼んで朝一番で買ってきてもらいました。それで一度、たった一度でいいから是非あなたにお会いしたくて」

 すると今度こそ、クォレルムはその鳶色の目を飛び出さんばかりに大きく見開いた。芸術大国であるアルテム王国では絵画や戯曲の評価は高くても、、詩自体や彼に対する評価はそう高くはないのだという。

「僕は兄たちのように秀でた芸術の才能があるわけでも、優れた軍人というわけではありません。あの詩集を読んで、あなたのように声をかけてくれる人もいるわけではないので……」

 照れ隠しなのか、葡萄酒を一息で飲み干したクォレルムは幾つかの詩についての解釈をセオリアに聞かせてくれた。人々の塊の中から少しだけ離れた場所で行われる語らいはセオリアにとっても新鮮で、色々な発見を与えてくれる。

「古の詩人アルリカウスの言葉の通り、ここの解釈は――セオリア様? あ、あぁ……僕としたことが、こんな蘊蓄ばかり喋っても何も面白くなんてないですよね」
「いいえ! とっても興味深いです。家だとあんまり、こういう話をできる人もいなくて……ちょっと新鮮で、面白いんです」
「そう、ですか。その、女性の方が喜ぶような話が不得手だというのは、自覚があるので」

 確かに大昔の詩人の話を好んで聞く貴族の子女はそうそういないだろう。
 だがセオリアにとっては彼が語る話はどれも知らないものばかりで、空想の扉を開けてくれる宝の鍵のようなものだった。
 こちらこそはしたないと思われてはいないだろうか――少し顔を俯かせると、クォレルムははにかんだようにして頭を掻いた。

「女性にこんなことを言ってもいいのかはわかりませんが……僕たち、少し似てますね」

 詩歌が好きなだけではなくて、理解者が少ないことも、周りとは少し毛色が違うことも。
 願わくばずっとこのまま王子と話していたかったが、じきに舞踏会は終わりを告げる。王子は国に帰り、セオリアはきっとこのまま将軍閣下と婚姻を結ぶのだ ろう。そういえば一曲も踊っていなかったと零せば、王子はすっと立ち上がると数回咳払いをして、それから彼女に手を差し出した。

「もうすぐ舞踏会も終わってしまうけれど、もし、もしよければ……僕と一曲踊って頂けますか」

 やがて時計塔の鐘が鳴り、大公閣下の誕生会は終わりを告げる。つないだ手が名残惜しそうに離れるのを、クォレルムはじっと見つめていた。彼女が両親と合流し、豪奢な馬車に戻っていくその時まで。

 ――シュティフクラン男爵家。

 小さく呟いた彼の声は、会場の誰の耳にも届くことはなかった。




 次の日、セオリアの元に贈り物が届いた。送り主不明のそれは大陸一の香水店のもので、王族に人気のエクストラブレンドだ。父はそれを、明日行われる将軍閣下との晩餐会に付けて行けという。もしも、将軍閣下からの贈り物だった時に口実になるから。
 だがセオリアはこれが将軍からの贈り物だとは思えない。彼は粗忽で、セオリアより15も年上だった。

 強すぎず、どこか心が落ち着くような香りだ。
 ――昨日のクォレルム王子だったら、こんな香水を選んでくれるかもしれない。
 頭をかすめるそんな考えに、セオリアはハッとした。昨日初めて会ったばかりの殿方にそんなことを期待してしまうだなんて、はしたないにも程がある。

 言われたとおり、明日の晩餐会はこの香水を付けよう。
 そう思えば憂鬱な気分も少しは晴れるのではないかと期待して、セオリアはそれを戸棚の中に大切に仕舞いこんだ。


 だが次の日、またセオリアに贈り物があったのだ。
 次は純白のドレス――上等なシルクに、鮮やかな青の刺繍をあしらった品だ。そこらの中小商人たちではほぼ手が出ないであろうその一品に、今度こそ父は舌を巻いた。

「セオリアお前、いつの間にこんなプレゼントをくれるような殿方と知り合ったんだい!」

 いくら問われようとも、セオリアには心当たりがない。
 差出人の名前もなく、気の利いた口説き文句が書かれたカードもない。父が紹介してくる男性ではまずありえないような贈り物の仕方だ。

「……まさか、クォレルム王子ではないだろうね?」

 父は確かめるようにそう聞いてきたが、セオリアはそんなことをしてもらうような心当たりは一切ない。
 父の方も父の方でそれだけは許さないと言わんばかりにその話題をそこで打ち切った。

 ――結局、将軍閣下との晩餐会は鮮やかな緑色のドレスと、昨日送られてきた香水をつけてで書けることになってしまった。
 セオリアの隣に座って食事をとる将軍閣下の目は彼女の胸や腰を品定めするように眺めている。彼女はこれが嫌で、将軍との結婚を上手く先延ばしに出来ないものかと頭を悩ませていた。

 それでもきっと、きっと父は自分を将軍閣下に嫁がせるに違いない。
 そうすれば大公閣下との繋がりも出来るし、男爵家は安泰だ。晩餐会を終え、疲労とは裏腹にやけに冷静な考えがセオリアの頭の中をぐるぐると回っていた。

「旦那様、お嬢様。屋敷に馬車が一台止まっているようですが」
「馬車だと? どの家の紋章だ。こんな時間に不躾極まりない」
「それが……三連星と矢、つまりアルテム王家の紋章なのです」
「何!?」

 父はそれを聞いて馬車から身を乗り出し、セオリアは僅かに目を輝かせた。アルテム王家ということは、そこにクォレルム王子がいるということだ。
 屋敷の前で停止した馬車から転げ落ちるように降りた父は、向こうの馬車の御者に何があったのかと説明を求めている。セオリアは執事に導かれ、裏から屋敷の中に入っていった。

 遠くに、夜の闇の中でもよくわかる金髪が見える。しかし執事と、父の影がそれを阻んでいた。
 部屋に戻れば、もう王子たちはどこかにいなくなってしまったようだった。父に話を聞こうにも、彼も執務室から出てこない。

 明日の朝にもう一度話を聞いてみよう。
 セオリアはそう考え、疲れた体をベッドに沈めるようにして眠りについた。



「お父様、昨日クォレルム王子がいらっしゃっていたんでしょう? 一体何をお話したのですか」

 セオリアは朝食の席で、そっと父に尋ねてみた。今日も母はお気に入りの愛人のところに入り浸っている。
 父は何でもない、と何度か彼女の質問をかわしていたが、あまりに折れない彼女に根負けしたのか、周囲の人払いをしたうえで渋々語りだした。

「お前をアルテムに連れていきたいと言ってきたんだ。……これが他国の王子ならば昨日のうちにお前を嫁がせていたのだが、何せ相手は小国アルテムの末王子……お前の幸せを考えると、やはり承諾しかねると言ったんだ」

 父の言う「セオリアの幸せ」は、そのまま「男爵家の幸せ」に置換することができる。
 詩の才能以外何も持たない、その才能も国内では軽んじられてすらいる王子に、言い方は悪いが金づるに化けるような娘は差し出せないというのが父の言い分だった。

「大体、人質の兄王子を救い出すことも出来ずに何が婚約かと言えば、背中を丸めて帰っていったよ。やはりあの国はあまり先は長くない。お前は将軍閣下と一緒になった方が、今よりずっと幸せになれるんだ」

 幼いころから何度も言い聞かされてきた言葉に、セオリアは何も言わずに朝食を詰め込んだ。
 父がどうしてそこまでクォレルム王子を目の敵にしているのかはわからないが、彼がそう言ったということは二度と自分は王子に会うことはできないだろう。
 食事を終えて部屋に戻れば、長く自分に仕えていてくれている乳母がセオリアを慰めてくれた。

 下級とはいえ貴族の娘として生まれた以上はそれを受け入れ化ければならないのだろう。
 けれど背中を丸めて一人国に帰っていくクォレルム王子のことを考えるたびに、呼吸が出来なくなるほど胸が苦しくなった。自分たちは似ていると言ってくれた彼の思うより低く優しい声がもう一度聞きたかったが、もうそれも出来ない。

 それから数日、部屋から出ることもほとんどなく泣き暮らしていたセオリアの元に、執事が血相を変えてやって来た。

「お、お嬢様。どうか落ち着いて聞いてくださいませ。王子が、クォレルム王子が戦死なさったとの知らせが」

 それは貴族の間で矢の如く早い噂となってあちこちを駆け巡っていった。
 父に追い返されたクォレルムは、なんと単騎で囚われの兄王子の元へ向かい、そこで首を斬られて死んだのだという。扱いは戦死だが、その遺体は損傷が激しく、父王ですら目を背ける有様だったのだとか。

 それを聞いたセオリアは隠すこともなく涙を流したが、問題はその後のことだ。
 何とセオリアの父が、哀れなクォレルム王子を死に追いやったとして噂になっているのだという。

「旦那様がクォレルム王子を追い返したのはひとえにお嬢様のため……ですが我が男爵家には商売柄敵が多いのです。このままでは、お嬢様ご自身の婚姻にも問題が出てくると――」

 泡を食ったような執事の言葉にも、セオリアは特にこれといった反応が出来ないでいた。あの心優しい王子が死んだという事実以上に今の彼女の心を揺さぶることはなかったのだ。
 最早自分の婚姻に関しても、どうでもいい。
 父が王子を追い返したせいで彼が死んだというのは紛れもない事実だ。こみあげてくる嗚咽を飲みこむことも出来ず、セオリアは子供のように何度も頭を振った。


 一度ぱたりと止んでいた贈り物が再び家に届くようになったのは、その次の日のことだった。

 最初は純銀の守り刀が送られてきた。普通は新婚の花嫁に精霊の加護があるようにと持たせられる品物だ。不謹慎であるとしてそれはすぐに捨てられたが、次 の日にはまた純白のドレスが。その次には東方の高級刺繍が――どれもこれもが、アルテム王国で花婿が花嫁に送る婚姻の品である。

 贈り物はそのうち全て廃棄処分となったが、両親はこれを異常なまでに恐れていた。送ってきたのは商売敵か、息子を殺されたアルテム王国か。

 すっかりふさぎ込んで部屋から出られなくなってしまったセオリアにもその話は届いている。
 顔も知らない誰かからの贈り物は確かに恐ろしかったが、恋しい人の死より恐ろしいものなど何もない。
 自分自身でもおかしいのではないかと思えるほど冷静に、セオリアは一日香水の香りを身にまとって過ごした。


 そうしているうちに、母の愛人が死んだ。


 愛人の中でも最も母親に可愛がられていた少年が、頭から血を流して死んでいた。上から重たい荷物が落ちてきたのだという。
 不慮の事故として母はそれを悼んでいたが、不幸な死は次から次へと続く。

 次は父の取引相手が病でこの世を去った。その次にはなんと婚約者の将軍閣下が。
 高齢だった取引相手と違い、将軍閣下は明らかに暗殺されていたのだという。
 首を斬られ、腹を裂かれ、両手足を滅茶苦茶に切り刻まれながら苦悶の表情で死んでいた。

 これで疑われるのは、セオリアの方だった。
 あの家に、あの娘に関わった人間はみな死んでいく。あの家には死神が憑いているに違いない――その噂に父の事業は瞬く間に斜陽の一途をたどり、母を慕う愛人たちも一人また一人と姿を消した。

 恐慌の真っただ中にある男爵家で、セオリアだけが部屋に籠ったまま香水を抱いて眠っている。

 そんな折、メイドの一人が夜中に歌声を聞いたとセオリアに話してくれた。周りの誰もが信じてはくれないが、夜中に誰かが美しい声で悲しげな歌を歌っているのだという。

「もしやあれは、クォレルム王子ではないかと……きっとお嬢様に最後のお別れを言いたくて、歌を歌っているのではないでしょうか」

 悲しげなメイドの表情に、すっかり憔悴しきっていたセオリアの目に光が宿った。昼でも夜でも、殆ど開かないセオリアの部屋の扉。
 その向こうで、死んだ王子が自分の名を呼んでくれているとしたら。

「……お願いがあるの。今日の夜は、燭台を片付ける前にランプを持ってきて……お父様たちには、内緒にしてね」

 その夜、セオリアは息を殺して扉に張り付いていた。
 小さなランプに灯をともし、両親に気付かれないように細心の注意を払って歌声を待ち続ける――すると、どこからか物悲しげな歌声が聞こえてくる。低く歌い上げるそれはまさしく、死んだはずのクォレルム王子だ。

「セオリア様? セオリア様、そこにいらっしゃるのですね? 嗚呼、どうか扉を開けて……その扉が僕の邪魔をするのです。あの、忌々しい将軍のように、僕に感づいて追い払おうとするのです」

 じんわりと胸の中にしみわたっていくような、優しい声だった。
 ともすれば扉を開けたくなってしまうような哀れみを含んだ声に、そっとセオリアはドアノブに手をかけた。

 ……だが、待てよ? 古今東西、物の怪が愛しい人に化けるというのはよくある話だ。もし扉を開けて、そこにいるのが王子ではなかったら?

 慎重に、次の言葉を待ちながらセオリアは扉に体をくっつけた。彼の悲しげなすすり泣きの声が聞こえてくる。

「扉を開けて下さらないのも、無理はない。あなたの父親が僕をあなたから引きはがそうとしているんだ。きっと僕の悪口を言うのでしょう。兄様方のように、 僕が死んで良かったと笑っているのでしょう。僕がどんなに贈り物を送っても、あなたの父親はそれをすぐに捨ててしまうのだから」

 でももう、そんな心配をすることはないのですね。

 声は笑う。
 優しく穏やかな王子の声。けれどどこか、底冷えするような響きがあった。

「ここを開けて下さらないのは、僕のはらわたが零れ落ちているから? 首の根元が腐っているからですか? すぐに新しいものに入れ替えるので、安心してください。君の父君は少し年を取りすぎているけれど、母君が囲っていた男の子は立派に役目を果たしてくれましたから」

 ベチャ、と水っぽい音がして、むせ返るほどに強烈な腐臭がセオリアの鼻をついた。
 思わず声を上げてしまいそうになるのを堪える――これは、本当にクォレルム王子なのだろうか? 少なくとも彼女がたった一度だけ言葉を交わした王子は、もっと清廉で、慈しみ深い人物だった。

「ああ、右手が爛れてしまっていけないな。すぐこっちも入れ替えますから、どうかここを開けて。またアルリカウスの詩の解釈についてお話をしませんか?  抉れた眼球も、あなたの母君の愛人に良い目を持った男がいました。ちゃんと作り直してきますから、あなたも僕の贈ったあのドレスを着て、僕を待っていてく ださい」

 ぞっとするほど甘い、毒が滴るような声だった。そこにあの優しい王子の声は面影も感じられない。セシリアは体が恐怖で震えるのとは裏腹に、ドアノブを開 けてしまいたいという衝動に駆られる。このまま、この扉を開いて、傷ついた彼を思い切り抱きしめてやりたいとさえ思った。

「……クォレルム王子?」

 そんな誘惑を断ち切るように、セシリアは精一杯の勇気をもって声を出した。
 震える声は自分でも情けないほどだったが、そうも言っていられない。

「王子、本当にクォレルム王子なのですか? だってもう、とっくに王子は……」
「兄王子を助けるために、首を刎ねられ殺された? そう、そうですね。間違ってはいませんよ。でも現に、僕はここにいる。会いに来たんだ、誰よりも愛しい あなたに――その唇でもう一度僕の名を呼んで。白くほっそりした手で抱きしめて。その体で、痛んでしまった僕の体を受け入れてほしいんだ」

 爪を立てたのか、ガリガリと急かすような音が扉の向こうから聞こえてくる。
 声を、あげてはいけなかった。セオリアは後悔したが、とっくに後の祭りだった。何度も扉を叩く音が、びちゃびちゃとしたたる水音に交じって聞こえてくる。

「セシリア、ここを開けてくれ。愛しているよ、誰よりも愛してる! だからここを開けて、僕を抱きしめて! 開けろ!」

 とろけるように甘かった声は怒声に代わり、どうして誰も起き出してこないのかと不思議になるほど大きな音を立ててドアが揺れる。
 セシリアは頭を抱えたままそれが過ぎ去るのを待っていたが、やがてカーテンの隙間からオレンジ色の光が零れ落ちてきた。朝がやってくる。

 助かった、と安堵の息を漏らすセシリアとは対照的に、クォレルムは泣き叫ぶような悲痛な声で何度も彼女の名前を呼んでいる。

「そんな、セシリア……朝が来たら私は塵に帰らなければならないのに。せめてたった一目、最期に焦がれた君の姿を見たくて、ここにやって来たのに……」

 そんなクォレルムの声に、セシリアの良心がちくりと痛んだ。
 彼は自分のために死んだのだと思うと、たった一目視線を交わすくらいなら許されるのではないかとさえ思えてくる。
 ドアノブに手をかければ、なぜあれほど頑なだったのかと不思議になるほどあっさりそれを引くことが出来た。

「クォレルム、様」
「ああ、やっと開けてくれたんだねセシリア」

 涙が混ざったような声と、皮膚を滑る冷たい手。あちこちが汚れ首は半分取れかけ、美しい金髪も色あせていたが、それはまさしくあの日であったクォレルム王子だ。
 痛ましいほどにあちこちが傷ついたクォレルムは、愛しげに彼女の手を取って薄く微笑んだ。かすれた声に、狂おしいほどの熱を孕ませながら。

「まだ、朝など来てはいないのに……ずっと一緒だ。愚かで愛しい、僕のセシリア」

 まるで木偶人形のように動かなくなったセシリアが、遠くで揺れる明かりが漏れるカーテンを覗き見ることはかなわなかった。誰もいなくなった城の中で、氷 のように冷たいくちづけを落とされたセシリアが今どこで何をしているのか。まるで墓荒らしをされたようにぽっかり抜け殻になった墓地から消えたクォレルム 王子がどうなったのか。知っている者は、もうこの世界のどこにも存在しない。