「髪を切られた挙句に妙な殺し屋に好かれるだなんて、君本当にその、大変な目に遭ったっていう言い方も変だけれど、……兎にも角にもお疲れ様。店はしばらく閉めてゆっくりするといいよ。市議長の甥御さんから報酬はきちんといただいたんだろう? ならば体を休めるべきだ。食事なら、バールと私が作れるんだしね」


 今しがたポストから抜き取ってきた日刊紙を几帳面に折りたたんで、エドモンド・パーシェルバウツは何とも形容しがたい笑みを浮かべた。氷嚢を頭に乗せてベッドの上で寝込んでいる少女の髪に触れると、熱が下がっていることに安心したのかその薄い唇からほうっと息がこぼれた。


 恐らく発育途中の体に無理が祟ったのだろう。近くで医院を営むさえない医者はそう言って風邪薬だけを寄越してきた。熱が下がった後は栄養のあるものを食べてしっかり睡眠を取ればいい。


「バール、……おじさん、バールは? 市警軍の人に連れていかれちゃったりしてないよね?」

「もちろんだとも。彼の身柄は私が保証しているし、放逐されたとはいえ元はシュトレーゼ帝国の軍人貴族だ。それに彼は見ての通りあの熊男だからね、市警軍の下っ端如きがどうにかできる人間ではないよ。さあ、起きたら食事をしよう」

「オートミールはいやだよ……おいしくないもん。おじさんのサンドウィッチかバールのスープがいい」


 ここ数日、アムニシェルの家にはバルトロメウかエドモンドのどちらかがずっと張り付いていた。それでいて水を飲んだりトイレに行こうと起き上がったアムニシェルに、寝ていなければだめだ、何が用なんだとしつこく聞いてくるのだ。淑女の階段を上ろうとしている少女に対してあんまりにもデリカシーが無さ過ぎるとは思うが、とにかく彼女は口を尖らせ、今までの仕返しと言わんばかりに可愛らしいわがままを口にして見せた。


「サンドウィッチか……明日には食べられるようになるよ。ホイップクリームを沢山と、そうだな、果物もめいっぱい突っ込んだ特製のフルーツサンドを作ってあげる。バールのスープは今晩にでも作ってもらえばいいさ。でも今はダメ。果物が食べたいなら、りんごをすりおろしてあげよう」


 柔らかい笑みを浮かべたエドモンドに手を引かれて起き上がる。


 どうにも世界がぐらぐら揺れているみたいだった。軽いめまいを覚えたアムニシェルはこめかみを押さえたが、別にこれは体調が悪化したからではない。昨日の夕方からずっと寝かされていて、とうとう頭の真ん中の方がおかしくなってきてしまったに違いないのだ。


「枕に酔った気がする……炭酸水は? 炭酸水もだめなの?」

「病人に炭酸水なんてあげたら私が先生に叱られてしまうよ。それにアミー、君アレに砂糖たっぷり入れるじゃないか。ソーダ水も、元気になったら作ってあげるから」


 結局細やかな要求は全て突っぱねられ、アムニシェルは不味い出来合いのオートミールを食べる羽目になってしまった。これもきっとエドモンドかバルトロメウが作ってくれたら美味しいに決まっているのに、栄養があるからと近くの商店で売っているものばかり食べさせられるのだ。



 渋々ながらも皿の中身を綺麗に食べ終えたアムニシェルは、少しばかり冴えた頭で今一度バルトロメウの所在について問うてみた。彼は今、エドモンドの伝手を頼って国立大学の資料室にいるという。


「もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。知り合いも忙しい人だし」

「国立大学に知り合い? ……ねえ、市警軍のこともそうだけど、おじさんってもう軍部の人じゃないんだよね? だったらなんでそんな人たちと……」

「カフェのお客さんとかもいるし、まあ知り合いなんて多いに越したことはないよ。体はだるくないかい? 何だったらお昼寝の時間でもいいけれど」


 とんでもない。これ以上眠ったら本当に体から根が生えて動けなくなってしまう。


 何度も頭を横に振ったアムニシェルは、着替えて普段使いの道具の整備を始めることにした。油を差さなければ錆びて動かなくなってしまう類いの機械に、今修理を待ってもらっている依頼の確認――客はアムニシェルが倒れたことを聞いて皆納品を待ってくれているのだ。


 エドモンドはいい顔をしなかったが、こればっかりは彼女も譲れない。

 修理は出来ないにしろ、内容の確認くらいは出来るはずだとごねるアムニシェルに、過保護なエドモンドもとうとう折れた。

 

 カウンター後ろの定位置に座った彼女は無言で作業を進め、彼女の様子が普段と変わりないことを見届けたエドモンドは一度店の様子を見ると言って正面から出て行ってしまった。

 そこから彼女が再び言葉を発したのは、中天にあった太陽が傾き始めた時間帯である。


「なんだってんだエディの奴! おい師匠起きてていいのかよ!」

「バールうるさいよ……うん、もう平気。ご飯もちゃんと食べられるから、夕飯はオートミール以外がいいな」


 いくつかの資料を抱えて店に帰ってきたバルトロメウは、適当な椅子を引っ張り出すとアムニシェルの横にそれを持ってきてどっかり腰掛ける。


「ねえ、大学に行ってたんだって? なにしてたの?」

「んー? あぁこれ、見てみろよ。エディの知り合いのところに行ってきたんだが、コレ、ヴォーヴドワール帝立大学の卒業者名簿だ。執事の兄ちゃんのこと、なんか載ってねぇかと思ってな」


 バルトロメウが取り出して見せたのは、埃をかぶった分厚い本だった。丁寧にその埃を取り払って中を開くと、古い本特有のカビ臭さとインクのにおいが広がっていく。


 中に紙を挟んでいたのか、バルトロメウがちょうど開いたそのページに、彼の名前は載っている。


「スミス・アディオン……ビジネスネームだとか言ってやがったからな、これが本当に奴の名前かはわからん。顔も俺らが知ってるあの兄ちゃんじゃねぇわな」


 卒業者名簿には顔写真と名前のほか、学部や略歴が書いてある。

 スミスは学生時代、経済学部で幾つか論文を書いていたようだが、それ以外の情報はまるでない。それどころか顔写真は二人が知っているスミスのそれではない。かっちりとしていて絵にかいたような執事の表情と、掴みどころのない襲撃者としての顔――そのどれにも当てはまらない、秀麗で女性的ですらある青年の写真がそこに張り付けてあった。


「それ、名前勝手に使ってたとか、そういうこと?」

「さあな。エディの伝手でもコイツのことは大して分からなかったが……まあなんだ、注意するに越したことはねぇよ」


 難しい顔をしたまま頭を掻いたバルトロメウは埃臭い本を閉じると盛大に首を鳴らした。今日も彼はアムニシェルに料理を作って、一緒に食べてから帰るのだろう。


「おぉ、そうだ師匠。結局あの箱の中身どうするんだよ。店に置くのか?」

「あ、うん。中身だけはお父さんのオルゴールと一緒にお店に置くことにしたんだ。そっちの方がいいかなって思って。外の箱は、エドモンドおじさんのお店に」


 結局あれからレーツェル・キューブは正式にアムニシェルの所有になった。子供がいない市議長の代わりに、彼の甥が譲渡の手続きをしてくれたのだ。ついでに破格の報酬も付けたのは、彼のあの状態を他言してほしくないという意図があったからだろう。現に、市議長は体調不良で職を辞したという情報だけが市井には流れていた。


 市議長の今後がどうなるかはわからないが、副市議長が繰り上がりで市議長職に就いて議会運営を進めていた。それはそれで問題がないし、バルトロメウはそれこそ市民生活にはさほど問題がないと呟いていた。

 

「でも、二個別々に置いておくのもちょっと可哀想だから、外の箱は別なの作らなきゃなぁって思うよ。元々の外箱は、おじさんのところに置いてもらおうと思って」


 そして母が遺してくれた金属の箱は、この度エドモンドのコレクションの中に加えられることになった。今後はオルゴールを守る盾ではなく、ネジ人形テリーが気障っぽく座る椅子としてシエル・ブリュの一角を彩ることになるだろう。


「いいのかよ、金属の方はともかく、もう一方はローゼンハイムが作ったやつなんだろ?」

「うん、でも二つ一緒の方がいいよ。絶対……お父さんとお母さんもそれがいいって言うと思うし。バール、箱作ってみる?」

「俺でいいのか? いや、別にアンタがやってみろって言うならそりゃ断りゃしねぇけどよ。いいぜ、抜群にイカしたの作ってやるよ」


 古傷だらけの手でアムニシェルの頭を何度も撫でたバルトロメウは、ニッと笑って店の奥へと潜っていった。――材料だけはエドモンドが死ぬほど買い込んできたから、バルトロメウはきっと彼女が好きなスープを沢山作ってくれるはずだ。


 のそのそと奥へ歩いて行ってしまった弟子の背中を追いかけて、小さな店の年若い店主は華やかな金髪を揺らして小走りで行ってしまった。

 そんな彼女の背中を、壁に掛かった時計達は静かに見詰めている。


<了>