「アムニシェル様、全ての準備が整いました――レーツェル・キューブも、こちらに」


 水を張った木桶の中に転がる、金属製の立方体。

 レーツェル・キューブと名付けられたそれは、アムニシェルの見立てではそこらの金属の匣と変わりはしない。組み立てた仮説が必ずしも合っているとは限らないが、何故だかそんな気がした。

 

 水の中に両手を入れると、少女は歌うような声で目覚めの言葉を告げる。


「カテゴリゼロ、個体名アムニシェル・アプリコット。アクセスを開始します」


 ただの立方体から、溝が刻まれた姿へ。

 微々たる変化ながらも、それは大きな一歩だった。アムニシェルは認証コードをよどみなく唱え上げた後で、もう一度木桶の底に匣を沈めた。


 そこまでは先日この屋敷に訪れた時と同じである。ここからはあくまで、エドモンドやミケーアの話を聞いたうえで彼女が立てた理論に過ぎない。いや、そう呼ぶにもおこがましいような、あくまでも想像上の域を出ないような話だ。


「バール、オルゴール持ってきて」

「いいのかよ、親父の形見なんだろ」

「大丈夫、万が一壊れたとしても直す自信はあるから」


 歯が折れたり歯車が錆びたりという細々した修理ならば、今まで何度も行ってきた。父の遺品が大事というわけではないが、恐らくローゼンハイムも同じような思考をするだろう。直せないものや取り戻せないものならばともかく、今のアムニシェルにはそれを元通りに戻す技量がある。いつだって、自分の腕には自信をもってこの仕事を行ってきたのだ。


 バルトロメウが持ってきたオルゴールを、レーツェル・キューブと一緒に水の底に沈める。ゼンマイを巻いて静かに手を引けば、手動のオルゴールは水底で音もなく動きだした。


「アプリコット様、これは一体……」

「波紋の形から音を探り当てるって、すごく難しいことらしいんです。私も未だにどうやってこれを知るのかはわからないし、機械も使わずにそれを解き明かした人の話を聞いてもちっとも理解できなくて」


 オルゴールは歌う。

 引き裂かれた恋人を今一度その腕に抱きたい。自分がどうなっても構わない、今一度愛を告げることが出来るのならば、死んだっていい。


 水底だろうが、断崖の上だろうが、あなたを腕に抱けるのならばどこだって苦痛ではない――曲の意に沿って、美しい装飾が施された箱は無機質な匣に向かって歌い上げるのだ。


「よかった……これ、ちょっとした賭けだったんですよ。ホント、ここに来てから賭けに乗っかってばっかりで。私もっと慎重だと思ってたんだけど、きっとバールのせいだと思うんです」


 ほっとしたように息を吐いたアムニシェルにすかさずバルトロメウからの抗議が入るが、その声もすぐに気の抜けたような吐息と共に掻き消されていく。


 卵の殻を割るように、アムニシェルが爪の先でレーツェル・キューブをつつく。するとゆっくりと、非常にゆっくりとではあるが、その硬い装甲が剥がれていくのだ。溝に沿って緩慢に剥がれ落ちていく金属の外面の中には、白い球体が収まっている。


「レーツェル・キューブが、割れた?」

「割れたっていうか、はい、これが中身だと思います。何か拭くものを持ってきてもらってもいいですか、スミスさん」

「は、はい。かしこまりました」


 スミスが足をもつれさせながら奥の方に走っていくのを見ながら、アムニシェルは深く息を吐いた。相変わらず市議長の方にはなんの変化も見られない。レーツェル・キューブの真相を知りたがっているとスミスから聞き及んでいた割には、随分と反応が薄い。


「アミーお前、やったじゃねぇか!」

「やった、けど……うーん、これ怒られないかなぁ」

「あぁ?」


 匣の外部が転がる木桶の中を覗き込んだバルトロメウは、それを目にして何とも気まずげに頭を掻いた。何とも表現しがたいと言わんばかりに、その視線はあちこち落ち着きなく動き回る。


「どうだなかな。まあ依頼通りに匣の中身は解明したんだし、それでお叱りっつーのはスジ違いだろ」


 片割れが引き上げられてもまだ歌い続けているオルゴールを水から取り出したバルトロメウは、自分の服の裾が濡れるのも厭わずそれを拭って元の鞄の中に戻した。装飾が痛んでしまわないように、手つきは案外優しい。


 それからほどなくしてスミスがタオルを持ってやってくる。水から取り出した球体の方を優しくそれで包むと、アムニシェルはそれをそっと耳に近づけた。


「ああほら、これ。そのオルゴールと対になる歌……ミケーアさんの家で聞いたのと同じ」


 音を発しながら、それは僅かに震えている。外殻が酷く硬かったのに対して、球体は意外にも触ると外側がへこんでしまうほどに柔らかかった。


「ではこれは、音を発するロスト・テクノロジーということなのですか、アムニシェル様?」

「えっと、それはこれから説明します。市議長にもよくお見せしないといけませんし」


 球体を受け取ろうとするスミスの手は、一度見ないふりをした。


 椅子の上に深く沈んだ屋敷の主は、虚ろな目で柔い球体を見詰めていた。もはやその興味がどこに存在しているのかは皆目見当もつかない。アムニシェルがいかように話しかけても、彼はブツブツと何かを呟きながら瞬きすらすることがなかった。


「あの、怒らないで聞いてもらえますか」


 結局市議長から何の反応をもなく、アムニシェルはそのまま水の中に沈む金属の匣を覗き込んだ。球体をバルトロメウに手渡すと割れた匣も手に取り、丁寧に水を拭っていく。

 

 彼女が何を言っているのかがわからない――目を丸くするスミスに向かって、アムニシェルはゆっくりと頭を下げた。


「まず、言わないといけないことがあります。結論から言ってこの匣、レーツェル・キューブは、ロスト・テクノロジーではありません。ごく簡単な仕掛けと、作成当時の最新鋭の技術を使った、世界でただ一人、私にしか開けることが出来ないただの金属の塊です。中身も大したことはありません……それ、オルゴールですよ」

「世界でただ一人……あなたが、魔女であるアムニシェル様のみが開くことが出来たのならば、それはロスト・テクノロジーと言えるのではありませんか」


 ゆっくり首を振ってレーツェル・キューブがロスト・テクノロジーではないと結論付けたアムニシェルに、スミスが疑問を投げ返す。

 しかしそれも否定するように短くなった金髪を揺らすと、水滴を残らず拭いあげた匣の残骸をスミスの元へと運ぶ。


「元々あの声紋認証も、本来は私や他の魔女に宛てたものじゃないんです。レーツェル・キューブを紐解くことが出来る人間は、作成者を除くとこの世に一人だけ。ローゼンハイム・アプリコットのみです」


 バルトロメウが目を閉じ、逆にスミスは目を見開いた。


 戦後生まれの人間ならばまだしも、戦前戦中生まれの人間で彼女の父の名を知らない者はいないだろう。最高にして最悪の『魔女』。三十余年の短い生涯の中で多くのロスト・テクノロジーを起動させ、多くの土地を焦土と化してきた男の名前だ。


「ここ、箱の裏なんですけど、見てください。サインと、すごく読みにくいけど何か彫ってあります」


 作成者と思われるサインは、よく目を凝らさなければ見落としてしまいそう場所に刻印されていた。整った文字ではないが、彫刻用の道具で掘られたと思われるその名前の主はアムニシェルもよく見覚えがある。


「作成者、プリエーラ・メニウム。私の母の名であり、魔女ローゼンハイム・アプリコットの妻の名前です」


 ひくり、とスミスの右目が僅かに引きつったことに気が付いた人間はその場にいただろうか。


 身重で母国を追われた天才科学者。娘を産んですぐに亡くなった彼女の人生は決して長くはないが、技術者として残した書物や作品は数多い。彼女が作成した作品こそがレーツェル・キューブだとするのならば、すなわちそれはロスト・テクノロジーになりえるはずがなかった。


「詳しい人に聞かないと分からないけど、多分これは母が趣味で作っていた作品群のうちの一つだと思います。或いは父に、結婚する前にあげたものとか」


 一言だけ添えられたメッセージはあまりに浅く掘られていて、しっかりと触れなければ読み取れないのではないかとすら思えてしまう。

 ぶっきらぼうではあるがそこだけは丁寧に掘られたところを見るだけで、生前のプリエーラの性格の一端に触れられるようだった。


「あげるわ、だとよ。誰にくれてやるとか、誰のためにとか、一切書いてないんだぜ。なのに誰に宛てたのかがありありと分かる。相当ローゼンハイムの野郎に惚れ込んでやがったんだな」

「しかし! ……ではなぜ、他の職人では開けることは愚か、最初の仕掛けすら……魔女のアクセスで、開錠されたんじゃあ」


 一瞬声を荒げたスミスだったが、すぐその表情と声音は普段通りの穏やかなものに戻っていく。だがその声にも、僅かな緊張と動揺が隠し切れずににじみ出ていた。


 けれどその問いにも、アムニシェルは答えを用意している。簡単な答えだ。


「アクセス権を父に限定した、恐らく声紋照合をかけてたんだと思います。父が持っていた魔女として、或いは科学者としてのアクセス権は私にすべて生前譲渡されたから、声紋照合の優先順位もその時に入れ替わったはずなんですよ」


 元々ローゼンハイムの為だけに作られた鍵が、今度はアムニシェルのものになる。自分の死を間近に見た彼女の父は、自らが持ちえる全ての権利を遺産として娘に残していたのだ。


 そのうちの一つが、レーツェル・キューブ――戦時中妻と交わした、風変わりで分かりにくい恋文に関する権利だったという、ただそれだけだ。


「だからこれはロスト・テクノロジーでも行き過ぎたオーバー・テクノロジーでもなくて、その、ただのからくり仕掛けの箱です。オルゴールを詰めて、多分お父さんに宛てても不自然じゃないようにするためにこういう仕掛けを作ったんじゃないかと思うんですけど」


 だからこの箱には、妙な魅力があるとか不思議な引力があるとか、そういうまじないじみた効果はあり得るはずがないのだ。

 アムニシェルが匣に惹かれたのは単なる知的好奇心として片付けることが出来るにしろ、問題は別にある。


「そこで兄ちゃんよ、俺らが聞きてぇことっていうのはそこにあるんだが」


 アムニシェルの少したどたどしい説明の後とは思えないほど剣呑で、低い声が部屋の中に響き渡った。

 空腹の獣のように視線を光らせ、ニヤニヤ笑いで問いかけるのはバルトロメウだ。


「この箱にある仕掛けっつーのはこれっぽちしかねぇよな? なのになんだって、あのじいさんはあんなにモウロクしちまったんでしょうか?」


 幼子になぞなぞを出してやる気軽さで上がった語尾に、スミスはもう一度片目をひくつかせた。