ミケーア・カルネフの家は、アムニシェルの住む町から少し奥に入った場所にある。経済的に貧窮した人間たちが多く住む地区で、到底アムニシェルのような幼い子供が1人で足を踏み入れられる場所ではない。


 隣に屈強なバルトロメウを従えている今だって、窓の向こうやドアの隙間、ありとあらゆる場所から感じられる視線は決して居心地のいいものではなかった。


「寧ろ、最悪……」

「元共和国軍の科学者が、何だってこんな場所に住んでんだよ。つーかミケーアって40近い姉さんだろ? そっちの方が危ねぇっつーの」


 ミケーアの年齢はバルトロメウやエドモンドに近い。概算すれば確かに40に近いのだが、それをズバリと言ってしまうのはどうなのだろうか。同じ女性としてそんなことを思いながら、、アムニシェルはあちこちにゴミの散らばった道を歩く。

 正直、先程から酸っぱいような苦いような臭いがあちこちからしてくるのだ。顔をしかめないようにするだけで精一杯である。


「普段はこういうところ、来ねぇんだろ。いや、頻繁に来るって言われても困るんだけどよ」

「来ないよ。基本的に大通りでほしいものは手に入るし……バールは来たことあるの、こういうところ」

「ある。戦時中だけどな、もっと酷かったか」


 野良犬が喉を鳴らす音、男の怒声、ヒステリックな女の泣き声に子供の叫び声。

 耳を覆いたくなるような音がこの町には溢れていた。生温い風も相まって、五感が常に悪影響を受けているような気さえしてくる。


 不安げに視線を彷徨わせるアムニシェルの左手を握って、バルトロメウは早く帰りたいとぼやいた。戦時中を思わせる言葉を彼の口からきくことはままあっても、それについての詳細な話は一切聞いたことがない。その辺はどうにも、エドモンドと一緒だ。


「けどまあ、これも勉強だな。世の中のおキレイなもんばっかり見て育ったらロクな大人にならねぇぞ」

「そうなの?」

「そうなの。経験談だからなコレ」


 暫く二人で歩いていると、不意にバルトロメウがその足を止めた。心底うんざりしたように深く深く息を吐き出して、アムニシェルの細い体を自分の後ろに押し込む。


「ちょっと、なに!」

「ちょい黙ってろよ師匠。出来ればその辺の空き箱の陰にでも隠れてろ。いいって言うまで出てくるんじゃねぇ。早くしろ!」


 聞いたことのないような声で一喝されて、アムニシェルは半分泣きそうになりながら走った。適当なゴミ箱の後ろに隠れて、頭を抱える。

 何があったのだろう。物陰から見えるのは彼の広い背中だけで、それ以外は何の変化も見当たらない。


 バルトロメウが腰のホルダーから銃を抜き取ったのが見えた。

 その瞬間に、甲高い金属音が鼓膜に殴り掛かってくる。


「バール!」


 恐らくその叫び声は、彼の耳には届かなかったのだろう。ふすふすと煙を上げる銃口を道のど真ん中に向けて、軍人上がりの男は獅子のように吠えた。


「バレバレなんだよ畜生! こんな汚ぇ街だからって殺気隠せるとでも思ってやがったのか!? 舐めんじゃねぇよこのドシロウトが!」


 轟と音がして、もう一度彼の銃が火を噴いた。

 モルテーニ社の0098型。当時の部下たちからもらった、バルトロメウの相棒。後から調べたところ、今でも熱烈な支持者がいる名作中の名作であったらしい。


 とにかく、それを構えながら中空に向かって叫ぶ彼の表情は修羅もかくやというほど厳しいものだ。


 だが次に訪れた一瞬、彼の強健な体が宙に浮く。同時に聞こえてきたのは骨を打つ鈍い音だ。


「ッず、」


 そこでようやく、アムニシェルは状況を認識することが出来た。

 ここに誰か、自分と彼ではない誰かがいるのだ。


 吹っ飛んだバルトロメウは完全に倒れることなく体制を整えて着地したが、一瞬だけ遅い。軍人でもなければ運動の経験も大してない彼女が見ることが出来たのは、黒く細い棒のような何かだ。それが、バルトロメウの脳天めがけて勢いよく下ろされる。


「バール、上!」


 声は届かない。

 耳を塞ぎたくなるような音がして、そのまま筋肉質な体が地面にふせた。その時やっと、アムニシェルは襲撃者の姿を視認することが出来た。


 針金のような体だ。バルトロメウのそれとは正反対と言ってもいい。

 顔は上半分が仮面で覆われているが、髪は鮮やかな金髪。右手には鞭か、あるいは細い棍棒のような何かを持っている。


「バール……バルトロメウ、うそ」


 ゆらゆらと、体の芯が定まっていないような歩き方で、襲撃者はこちらに向かってくる。隠れていたって意味がない――その辺にあった小石を拾って投げても、男はふらふらとその攻撃をかわして一歩一歩その距離を縮めてくる。


「無、駄。そのように原始的な攻撃は、美しくないですね」


 へたり込んだアムニシェルの眼前、男の持つしなやかな棒が風を斬って、隠れていたゴミ箱を真っ二つに切り裂いた。ひしゃげたゴミ箱は勢いよく転がって、どこかへ行ってしまう。


「ごめんなさいね。これもクライアントからの命令でして……私としては、魔女を殺すというのは美学に反するのですが。嗚呼、こういう場所は嫌いだし、こういう仕事も嫌いなんだ。特にあなたのような女性、魔女相手だなんてまったくもって美しくないから……」


 ブツブツと一人で何かを呟いている男に、とうとう石を投げることも出来なくなってしまった。

 

 バルトロメウが大丈夫かどうか見に行かなければならない。あんな風に思い切り頭を殴られたのだから、きっと無事ではないだろう。すぐに病院に行かないと――そう思っても、体がまるで動かない。


 アムニシェルは目を見開いたまま、荒い呼吸を繰り返した。

 きっと、自分もこの男に殺されるのだ。


「とにかく、痛くないようにして差し上げますから。ね、戦後生まれの魔女……アムニシェル・アプリコット様」


 鞭がしなる。

 風を切るような音がして、それでもアムニシェルは惚けたままだった。

 男の白い指先から、血が滴っている。


「おいおいおいおい兄ちゃんよ」


 予想していた衝撃も痛みも、いつまでたってもやってこない。

 見開いて乾ききった瞳に涙が浮かんでくるのと、聞きなれた低い声が聞こえてくるのはどちらが先だっただろうか。


「舐めんじゃねぇよこのドシロウトがって、俺今言わなかったか?」


 骨が鳴る。

 だけどそれはアムニシェルのものではなかったし、まして倒れ伏していたバルトロメウのものでもなかった。


「おう、怖い思いさせて悪かったな師匠。怪我してねぇか」


 男の右腕をぎっちりと締め上げながら、高い位置で気の良い弟子が笑っていた。


「バール、あ……あたま、頭大丈夫?」

「元からたいしてよくねぇから安心しな。さて兄ちゃんよ、読みが甘かったみてぇだが」


 安心させるようにアムニシェルに笑いかけたバルトロメウは、声を一層低くして襲撃者の男に話しかけた。その様は軍人というよりまるで因縁つけて突っかかってくるゴロツキのようだ。


「貴様、バルトロメウ・ジェラルド――」

「名前知っててくれたのか。ありがと、よ!」


 男の右腕をその背中に押し付けたバルトロメウは、その場所を思い切り捻りあげる。筋がきしむ嫌な音がしてアムニシェルは思わず目を閉じたが、追撃と言わんばかりに何かを蹴りあげたような音がした。


「ふん、情けねぇなぁ。ムチで叩かれるくらいならムショ時代にイヤっつーほど経験済みだわ。嗜虐趣味の看守に比べりゃ、あれくらい屁でもねぇわな」


 そのまま背中に蹴りを一撃、男の体を転がしたバルトロメウの目には明らかに攻撃の意思が宿っている。

 驚愕に目を見開いている男は何も言わなかったが、信じられないと言わんばかりに何度か首を横に振っていた。


「こちとら地獄みてぇな戦場で何度も死神っつーヤツに出会ってんだ。テメェみてーな陰険な野郎にくれてやるほど優しかねぇんだよ」


 二度、三度。

 思わずアムニシェルが止めてくれと言いたくなるだけバルトロメウは男を蹴りあげた。やがて彼の、仮面におおわれていない白い唇からは咳と共に赤黒い血液が逆流してくる。


「ちょ、バールやりすぎ……!」

「いや、アンタ殺されかけてんだぜ? そんな野郎に情けかけてやれるほど俺は人間出来てねぇんだ」

「私より年上でしょ! やめてって、バール!」


 このままでは本当に、バルトロメウはこの男を殺してしまいかねない。

 銃は腰に吊ってあったが、いつそれに手をかけるかもわからないのだ。


 思わずアムニシェルはバルトロメウの体にしがみついて、彼の動きを阻害した。その時にやってやっと、男を蹴り続ける足が止まる。


「私、大丈夫だから」

「……わかった、わかったよ。畜生、なんだってんだアンタ、甘ちゃんだなぁ」


 げぼげぼと咳き込んでいる足の下の男を一瞥して、バルトロメウは不満そうに鼻を鳴らした。

 

 元軍人。その事を差っ引いても、頭を殴られて平気な人間はそういないだろう。無事なのは嬉しいが、その時自制心をどこかに置いてきてしまったのではなかろうか――弟子の瞳に一瞬宿った攻撃的な光を思い出して、アムニシェルは思わず身震いした。


「で、兄ちゃん。誰の差し金だよ」

「守秘義務、です……」

「なるほど立派な根性だ。ウチの師匠はすーぐエディに言っちまうからよ」


 緩慢な動作で起き上がった男は、口から一筋血を流してはいるがそれ以上は変わった様子がない。バルトロメウと同じく鍛えているのか、口調も先程までと同じ慇懃で紳士然としたもののままだ。


「大戦後、ジェラルド卿が退役して15年……これはあなたの実力を計りきれなかった私の失態です、が」


 刹那、風が舞い上がった。

 右手の鞭を手放した男が、予備動作なしでアムニシェルの目と鼻の先まで間合いを詰める。


「きゃ、」

「それでもやっぱり、成果ナシと報告するわけにもいかないので――失敗は、美しくないですから」


 一閃、男の右手が光る――鋏のような金属が、視界を掠めていった。

 恐らくもう一瞬バルトロメウが彼女の手を引くのが遅かったら、両目にその凶刃が突き刺さっていたかもしれない。


 引き寄せられたアムニシェルが状況を理解し、恐怖からその胸が早鐘を打つ頃には既に襲撃者の姿はない。


 体が震えている。


「アミー、おいしっかりしろ! 呆けてんじゃねぇ」

「あ、バール……」

「悪かった、頭トチ狂ってたのは俺の方だ……怪我ねぇな」


 服は破れていないか、頬は切れていないかと確認を繰り返すバルトロメウは、ある一点を見て何故か動きを止めた。

 どんどん顔色が青くなっていく様を見て、アムニシェルは首を傾げる。


「す、すまねぇアミー……いや、アムニシェルさん」

「え?」


 本当に一体何があったんだ。

 叱られた子供よろしく体を丸くするバルトロメウが、「髪……」と消え入りそうな声で呟く。


「え、髪……あ、」


 結い上げたはずの髪が、ない。

 いや、正確にはその残骸らしきものは申し訳程度に引っかかっているのだが、結い上げてもなお背中まであった母親譲りの金髪が、中ほどでバラバラになっていた。


「な、ない」


 空気に晒された首筋が少しだけ冷たかったが、それよりもアムニシェルは何度もすまない申し訳ない面目ない情けないと繰り返すバルトロメウをどう元気づけたものか、それを最優先で考えることにした。