「バール、ネジ取って。そしたら後はもういいから、郵便受け見てきて。そしたら本当に上がっていいよ」


 昼前の店で壊れた鳩時計の最後の仕上げをしながら、アムニシェルは手元でいつものモノクルをぐるぐると回している。細かいとことは今しがた直し終えたので、後は正常に動くかどうかの確認だけだ。

 今までもレーツェル・キューブ解明の合間合間に細かな仕事を請け負ってはいたが、こうしてまともに時計を直したのは久しぶりのような気がした。つい工具を持つ手に力がこもってしまったが、愛嬌というものだろう。


「おう、手紙来てたぜ……お目当てさんからだ」

「え、うそ。早いね」


 彼が言うお目当てさんというのは、アムニシェルとバルトロメウがある依頼をした相手のことだった。科学者、ミケーア・カルネフ。エドモンドの知己の一人であり、戦時中にさっさと祖国に見切りをつけてオムニェル=スタングにやって来たという。


 二人が彼女に出した手紙は、水の波紋から音階を読み取ることが出来るかという旨のものだった。エドモンドと同じく今は科学者を辞め、市井の発明家として生きる彼女から返事が返ってくるかどうかはある意味賭けでもあった。


「アクが強い姉さんだって聞いてたからなァ、てっきり手紙丸ごと無視されるもんだと思ってたわ」


 アムニシェルの許可を得て、バルトロメウが封を切る。丁寧に折りたたまれた手紙からは、ふわりと香水の香りが漂ってきた。


「オツなことしてくれるが……あー、駄目だコレ、かなり悪筆だぜ?」


 女性らしい心遣いだと感心したのもつかの間、バルトロメウは心底残念そうな溜息をついて紙をアムニシェルに手渡してきた。


 確かに、薄青色の便箋に書かれているのはミミズが水たまりを求めて這いずり回ったような文字だ。


「あ、待って。でも少しなら読めるよ。えっと――かいど、く。可、能……疾く参られ、よ。難しい言い回しするなぁ。早く持って来いってことでいいの?」

「そうみたいだな。良かったじゃねぇか。これでかなり匣の中身に近づける」


 実のところ、彼女を紹介してくれたエドモンドからは会うことすらもかなり難しいと聞いていた。戦時中の多くの科学者がそうであるように、彼女もまた生粋の学者肌、言い方を変えれば変人だ。殆どの場合、その行動基準は自分が興味を持ったか持たないかである。

 期待はしないでくれ、と先に言われてしまっていたが、少なくともレーツェル・キューブという存在はミケーアの興味を引いたということになる。


 アムニシェルが僅かに頬を赤く染めて、手紙を抱きしめた。


「行こう、バール! 手紙に書いてあるんだから、出来るだけ早く。ううん、すぐにでも!」


 上気した頬のまますぐにカウンターを出たアムニシェルは、すぐ住居の方に戻り作業着からクロノワンピースに着替えてやってくる。あまりの動きの速さに、唖然としたのはバルトロメウの方だった。


「おいおい、行くっつってもアンタまだ仕事終わってねぇじゃねぇか。先に来た依頼は終わらせるべきだ」

「鳩時計はほら、ちゃんと直ってるよ」


 自信満々に胸を張るアムニシェルの傍で、直ったばかりの時計がくるっぽーと間の抜けた声を上げた。職人としてその辺りはぬかりない。

 上着を羽織って早く早くと急かす師匠を、弟子の厚い掌が遮る。その様子はさしずめじゃじゃ馬をなだめている飼い主のようだ。


「どうどう、ちぃと落ち着けや師匠。焦ったっていいことはねぇわな……なんつーか、どうにもキナ臭ぇ」

「どういう意味? まさか宛先が間違ってるとか?」

「そうじゃねぇよ。いや……俺自身もなんて言っていいのかはよくわかんねぇんだ。だが、あー、勘だ。ムショで随分鈍っちまったかも知れねぇが、これは軍人の勘だよ」


 彼は何を言いたいのだろう。


 眉根を寄せて難しそうな顔をするバルトロメウに、アムニシェルの頭の中は疑問符しか浮かばない。見上げた彼の顔は、逆光になっていることもありかなり老けこんで見えた。


「行くなとは言わねぇ。が、嫌な予感がする。それだけだ。だから少し待ってろ」


 かたい掌がそっとアムニシェルの方に置かれたが、彼女はまだなぜそうなるのかわからないという表情をしている。重要であろうことを棚上げされたまま頭ごなしに行くなと言われるのは、あまり気分のいいものでもなかった。


「バールが何考えてるか、ちょっとわかんないよ」

「俺だって自分が何考えてるかわかんねぇんだよ。待ってろっていっても……そうだな、昼飯食ってからでも遅くねぇだろってくらいだ。アンタが飯食ってる間に俺の方も準備してぇから、それで待ってろって言ってんだよ。いいな?」


 擽るように金色の髪を撫でた後、バルトロメウはそう言って店を出て行ってしまった。彼にも彼の準備がある。手土産を持っていくとか、髪を梳かすとか、そういう意味ではないことくらいアムニシェルにも理解できた。それほど、あの精悍な横顔が妙な緊張感を持っていたのだ。


「嫌な予感って、なんだろ」


 小さくなってやがて見えなくなった背中を視線で追いかけるアムニシェルの横で、腹を空かせた鳩時計がぽーぽーと何度か鳴き声を上げている。

 

 

 昼食は、塩のきいていないパスタだった。奥の住居スペースで作ったそれは少しもそもそしていて御世辞にも美味しいとは言えない出来だったが、用意したのは一応二人分。時折やってきては夕飯を食べていくバルトロメウの分の皿に盛り付けた料理は、結局冷めて食べられなくなってしまった。


 食事をして待っていろ、その間に準備をしてくる――言われたとおりに待っていても大きな体の弟子が帰ってくることはない。食事を取り終えてすぐは早く行かなくてはと焦りを覚えたが、少し経って頭が冷えるとバルトロメウが言っていたことも何となくわかるような気がした。最初から彼はこの依頼に対して、何かがおかしいと言い続けてきたのだ。


「魔女は、他にもいる。私じゃなくても……個人で動ける魔女が少なくたって、ゼロのはずがあるわけない。依頼者は市議長、依頼は破格、わざわざ専門知識がない私にこの依頼を任せた、意味」


 店の方からタックタックと足踏みするような秒針の音を聞こえてくると、思考の沼の中に引きずり込まれそうになる。沼の底に沈んだ思案の悪魔が骨だけの長い指を器用に動かしながら、アムニシェルの首に掛けようとして――そこで、覚醒する。


 ダイニングの椅子に座ったまま一際長く吐き出された呼気に、どっと汗が噴き出た。一瞬、或いはそれなりに長い時間眠っていたのかもしれない。相変わらずあちこちに掛かった時計は無表情に時を刻み続けていた。


「バール、遅いなぁ。ご飯食べたのかな。なにしてるんだろ」


 椅子の上で足をぶらぶらさせながら独り言ちても、答えを返してくれる人はいない。父が死んでから7年はずっとこうだった。何かと反応がいいバルトロメウは問いかければ大体何かを返してくれていたから、静かだった一人の期間が随分と遠い昔のものに思える。


 空いた皿をきれいに片づけても、なおドアの向こうに人影はない。てっきりミケーアの元に出かけると思って店も閉めてしまったし、レーツェル・キューブのせいで急を要する依頼も受けていない。すっかり手持無沙汰になってしまったアムニシェルは、サンプルとして置いてあるオルゴールに手を伸ばした。これも父の遺品だ。


「ホントなんで私だったんだろう。科学者だって沢山いるのに、魔女も絶対に探せばいるはず……私が他の魔女たちと違う理由。年が若い。経験が少ない……戦争を、知らない」


 他の魔女と自分の相違点。挙げるとするならばそれくらいだ。父のように希少な男性の魔女でもなければ、特筆するような技術があるわけでもない。ただ、戦後に生まれた魔女であること。それだけがアムニシェルに与えられた特別な肩書だ。


「まだ子供で、両親もいなくて、大きな後ろ盾があるわけでもないから――大人が強く言えば言うことを聞く、便利な人間だから」


 ふわふわとした疑念は、やがて大鎌を振り回してアムニシェルの思考を掠めていく。そうだ、正常な判断が出来ないオズベルク市議長が、幾らマラドゥイユ市議の斡旋があったからといって職人としての実績がほとんどない彼女を選んだりするだろうか?


 たとえ市議長が藁にもすがる思いで「魔女」を訪ねてきたとしても、執事のスミスを連れることもなくたった一人、丸腰でこんな小さな店にやってくるということが、本当にあるのだろうか。


「変、だ」


 言葉に表すのは難しい。

 ただ直感が告げるというのは、科学者の娘であるという僅かばかりの矜持が許さなかった。


 何がおかしいのか。バルトロメウはずっと言い続けてきたのに、警告し続けてくれていたのに、今になってから思い出せない自分の記憶力が憎らしい。

 歯噛みしたアムニシェルは、椅子から転げ落ちるように走り出した。足をもつれさせながら店の方に出て、バルトロメウが描いたスケッチを開く。


 豪快な見た目とは裏腹に、絵や文字は整然と並んでいる。アムニシェルがまとめておいてくれと命じたもの以外に、彼自身の見解もそこに書かれていた。その多くは疑問に思ったことをつらつらと書いては二重線で消し、答えを書いていっているだけのものだが、それ以外のメモも散見される。


「スミス、ロストテクノロジー、懐疑的。何故?」


 単語のみで書かれた言葉にアムニシェルが思わず目を見開いた時、同時にすぐ目の前の扉が勢いよく開いた。


「遅れてすまねぇ! ちゃんと飯食ったか? まさかまたあの不味い紅茶で済ませたとかアホ抜かしてんじゃ……おい、なにしてんだアミー」

「バ、バール、お帰り」


 驚きのせいで瞬間的に飛び上がった心拍を上から鎮めるように、アムニシェルは自分の胸のあたりを押さえた。よほど急いで帰って来たのか、浅黒いバルトロメウの顔にはポツポツと汗が浮かんでいる。


「走ってきたの?」

「ちょっとばかしブツの調達に時間かかってな。こんだけデケェ街だからって期待したのによ、中々見つかりゃしねぇ。探し回ってこの様だぜ。悪いが師匠、ちっと水くれ」


 軍人上がりが情けねぇ。

 そう言ってアムニシェルが用意したコップ一杯分の水を一気に呷ったバルトロメウは、行儀悪くカウンターに寄りかかりながら広げてあったスケッチを眺めていた。


「どうしたよ、こんなもん開いて」

「ちょっと気になったことがあって――スミスさんと、市議長のこと」


 その言葉に、疲弊しきっていたバルトロメウの瞳に光が戻る。

 道具入れ代わりにしているくたびれたベルトが、彼の腰のあたりでキラリと光った。



「バールがずっとおかしいって言ってたから、やっぱり気になっちゃって。それで少し考えたんだ。最近私ってばずっとバールやおじさんに頼りっぱなしだったし、自分の頭で考えることしてなかったなって思って」


 状況的に一人で何とかなる様な問題ではなかったとはいえ、アムニシェルはいつだって自分の頭で考えて行動してきた。それがここ数日はバルトロメウにおんぶにだっこで頭の整理も出来ていない。

 相変わらずカウンターに寄りかかって遠くを見ているバルトロメウは、特に何も言うわけでもない。唇を真一文字に引き結んで、話を聞いているのかどうかすらも怪しいほどだ。


「いくら魔女の多くが軍部所属っていっても、市議会の議長が全くコンタクト取れないっていうのも、おかしいと思うの。私が議長やスミスさんの立場なら、経験不足の魔女よりは熟達した職人の方を選ぶと思う」

「そうだな、そりゃ道理だ。特にあんだけ得体の知れねぇもんなんだ、市議長閣下ともあろう御方なら、普通は軍部に管理を委ねるとは思うが――考えうる可能性のどれもこれもが憶測の域を出てねぇっていうのが面倒だ」


 低い舌打ちを一つ、バルトロメウはベルトと一緒に腰に吊った銃のホルダーに手をかけた。鈍く光るそれはアムニシェルが再び命を吹き込み、彼自身の手によって丁寧に手入された相棒だ。


「さっきアンタが言った通りだ。どっちにせよ、来いって言われた以上は行かにゃならんだろう。野暮用で遅くなっちまったが、ミケーアの家ならここから歩いてもそう遠かねぇ。準備、出来てんだろ」


 野暮用。そう言って武骨な指が銃の形を作った。弾薬を買いに行ったということか。

 ようやく共有することが出来た危機感に顔をこわばらせながら、アムニシェルは大きく首を縦に振った。正体が何にせよ、二人はレーツェル・キューブがなんであるのかを解明しなければならない。


「バールが遅いからもう行けないんじゃないかと思っちゃった。準備はもうバッチリだよ!」


 よそ行きの黒いワンピースにお気に入りのブーツ。髪はいつも通り後ろでひっつめて、戦後生まれの魔女は弟子と同じようにニヤリと笑った。



 大通りの喧騒は、いつも自分の耳を煩わせる。


 下品なのだ。

 淫猥で下卑ていて、均整も取れいていなくて何とも言えない不快感で身中が満たされ体のあらゆる場所を掻き毟りたくなる。


 彼には理解できなかった。どうして彼女はこんなところに住んでいるのだろうか。自他ともに冷静な人となりであると評価される彼の頭脳であっても、理解が出来ない。


「品格が失われてしまう。『魔女』の高貴な品格、ロスト・テクノロジーの美しい均衡が台無しだ」


 そう、彼は渇いた声で言うと、神経質そうに指を何度か組み替えた。一刻も早く今の場所から立ち去りたい。唯一静かなカフェの中は外見だけならば至極上品でまともだが、中は女の姦しい笑い声で満たされている。


 嗚呼、これも美しくない。ダメ、駄目なのだ。


「コーヒーのお替りはいかがですか?」

「いや、私はこれで」


 一房だけ髪を赤く染めた店主と思しき男は、少なくともバランスが整っていた。人好きのする微笑は客商売のそれとは少し違うような気がしたが――どうでもいい。ここはそういう場所だ。乱雑な過去が積み上げられてできた場所。まったくもって美しくない。


「下品なのは美しくない。美しくないのは気味が悪い。君が悪いのはあの匣も一緒だ。あんな得体のしれない物体がロスト・テクノロジーなどと……」

 

 ガリガリガリガリ。

 傍目にも耳障りな音を立てて、彼は爪を噛んだ。帰ったら整えなければならない。均整の取れた美しい形に戻すには、爪ごと剥いで最初から形を作り直さねば。


「すみません、お会計を」


 親指一本分の爪を台無しにして、ようやく彼は立ち上がる。指からは血が滲んでいたが、それも些末なことだ。どうせこれから汚れてしまうのだからどうでもいい。帰って、今一度新しい服に着替えて、それから。


 ――それから、どうしようか。


 会計を行う店主の髪を眺めて、彼は薄い唇を開いた。


「あの、実は主人の命令である店を探しているのですが……」

「店? この辺りのですか?」

「はい。主の命令でシュデール帝国から初めてこちらの国にやってきたのですが、とんと地理には疎くて――稀代の魔女、ローゼンハイム・アプリコット氏が営む時計店を探しております」


 その言葉に、店主は目を細めた。

 魔女、ローゼンハイム・アプリコット。

 名前を聞いた瞬間に首を横に振った店主の反応は、予測通りだ。


「残念だけど、彼はすでに亡くなっている。彼の娘の店ならそこに……残念、彼女はこれからお出かけみたいだ」


 骨ばった、うっすらと傷の浮かんだ指先が差しているのは、眩いばかりの金髪の少女の姿だ。その横には熊のような男が用心棒よろしく腕を組んで歩いている。

 なるほど、と口の中だけで呟いた言葉は、唾液と一緒に飲みこんでしまった。


「ありがとうございます。ローゼンハイムさんは亡くなっていたんですね」


 惜しい損失だ。

 そう言った店主の瞳に一瞬鋭い光が宿ったのは、見間違いだと思いたい。

 代金を支払って、彼は猥雑な街への一歩を踏み出した。