波紋は揺れる。

 小刻みに、時折ゆったりと、一定のリズムを刻んでいるようにも見えた。まるでそういう芸術品であるかのようで、アムニシェルは思わず唾を飲みこんだ。


「音、とっても小さくて聞き取りにくいけど、この匣はきっと音を出してる」


 バール、メモ。

 静かに、だが鋭く飛ばされた命令に、バルトロメウは弛緩しきっていた体中の筋肉を再び揺り起こした。精緻な筆致でその様子を書き取っていく。

 

 音、音だったのだ。

 恐らくこの音が、市議長の頭をおかしくしてしまった。アムニシェルはそう直感した。万人が心奪われる音の揺らぎというのが、世界には存在していると聞いたことがある。中で発せられているのは人工音か、はたまた何か自然的な音なのか。金属の匣はちょうど蓋のように中を覆っていて、レーツェル・キューブを水から取り出して耳に当てたところで音など聞こえては来ない。


「スミスさん、スミスさんしっかりしてください! あの、タオルかなにか、水を拭くものを持ってきてもらえますか」

「は、はい。すぐに」


 それまでの有能な執事っぷりはどこに行ったのか、動揺を隠しきれない様子のスミスは立ち上がったものの何度か足を絡ませて壁にぶつかった。見ていられないと溜息をこぼすバルトロメウに、アムニシェルも苦笑をこぼす。


「しかし……何だってんだ。音を出す匣なんつーのは聞いたことがねぇな。オルゴールにしちゃァ、ちっとばかり武骨すぎるが」

「外側のこの匣の部分を取っ払っちゃったら、多分中に何か入っていると思うんだ。レーツェル・キューブっていうけど、匣そのものが音を発してるとは思えないし……うぅん、どうしよう」


 ひっつめていたアムニシェルの金髪が、一房はらりと落ちた。


 音を出す物体ということが分かったところで、彼女たちにはそれがなんであるかを解析する方法がない。こういったことの専門分野はそれこそエドモンドやプリエーラだ。或いは科学に対して造詣が深かったローゼンハイムも助けを求めることは出来ただろうが、アムニシェルはそうしたことにはとんと疎い。機械を扱う上で最低限の知識ならまだしも、音や光は完全に専門外だ。


「波紋の形から、音を調べることならできるぜ」

「え、うそ」

「俺も出来るっつー話を聞いたことがあるくらいだ。戦時中の最新技術だからな、今その研究がどうなってるかは知らんが……エディなら、あるいは」


 エドモンドなら、知っているかもしれない。

 既に科学者としての一線を退いている彼ではあったが、まるで話が分からないということもないだろう。バルトロメウもアムニシェルも分からない分野のこととなると、頼ることが出来るのはもう彼しかいない。


 二人は顔を見合わせて、同時に頷いた。


「帰ったら、おじさんに聞いてみよう。あと、スミスさんにも」

「おう、だがその前にアミー、その匣もう一回水の中に入れてくれねぇか。ちゃんとした音になってんならパターンがあるはずだ。執事が来る前にそれを書いておかねぇと」


 バルトロメウの提案に、再びレーツェル・キューブは水の底に沈められる。何をやっているのか、スミスはまだ部屋に戻らない。僅かな水の揺らぎを彼が手早く書き留めた後も、とうとう部屋のドアが開くことはなかった。


 部屋を出ていく際のあの動転っぷりを見るに、もしかしてその辺で泡を吹いて転がっているんじゃないか――面白おかしくバルトロメウがそう茶化しても、アムニシェルからしてみればただただ心配が募るだけだ。


「ちょ、ちょっと様子見てくる……流石に遅いよ」


 本人の姿が見えなくても、そこら辺を忙しく動き回っている使用人の誰かに聞けば、執事の居場所位ならすぐにわかるだろう。

 アムニシェルはドアを開けて、辺りを見回す。部屋の前に人の姿はなく、耳鳴りがするような静寂だけが漂っていた。


「アプリコット様?」

「ヒィッ!?」


 突如、その静寂を打ち破るように低い声が聞こえてきて、アムニシェルは比喩でなくその場で少しだけ飛び上がった。するとすぐに、申し訳なさそうな謝罪が降ってくる。


「あ、申し訳ありません……何やら神妙な面持ちでございましたので、お加減でも悪いのかと」

「いえ……その、スミスさんのこと、探してました」

「私でございますか? あぁ、遅くなってしまい申し訳ありません。殊の外自分でも驚きが強かったようで、落ち着くまで少々時間がかかってしまい」


 頼んでいたタオルを手渡される。白く柔らかいそれは、ふわりと甘い香りを漂わせている。外に干してあったものをそのまま持ってきてくれたらしい。


 タオルを受け取って匣を丁寧に拭きながら、アムニシェルは先程バルトロメウと話し合ったことについてスミスに質問した。


「あの、さっきバールから聞いたんですけど。波紋の形から普通の音に変換する方法があるって」

「はい。確かにございます」

「スミスさんは分かります? どういう形がどんな音だって」


 問い掛けに、スミスはゆっくり首を横に振った。一見万能そうな彼が明らかに不可能だと言ってのけたのは初めてかもしれない。


「ヴォーヴドワール大卒業じゃねぇのかよ。使えねぇ」

「私の専門は政治学でしたので……申し訳ありませんが、お力にはなれそうもありません」


 スミスの暗い色の瞳には、僅かに残念そうな光が宿っていた。


「こうしたことは、やはり専門家に聞いた方が良いのでしょう。主の伝手から軍部の科学者を紹介できると思いますが、如何なさいますか」

「コッチにも心当たりはある。折角の申し出有り難いが、そっちの方が信用出来るっつーのは確かだな」

「左様でございますか。出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません」


 部屋に戻ってきたスミスは先程までの冷静さを完全に取り戻したようで、綺麗に水滴を取り除いたレーツェル・キューブをまた元あった場所に返しに戻っていった。その様子に、バルトロメウは何も言わず溜息をついている。いつもなら真っ先にあの執事が気に入らないとしたうちの一つでもかましているところだろう。


「どしたの、さっきから妙に黙り込んでるけど」

「いや、俺にもよくわかんねぇんだがよ、……必要なこと以外は話すとムカつくから、話さねぇ方がいいような気がしてきてな。やっぱ年か」

「おじさんになったら怒りやすくなるんじゃないの」

「かもなぁ。あーあ、もうすぐ四十だなんて考えたくもねぇ」


 一番若くて活動的な時期を牢獄で過ごしたというのもあるのだろうが、それでもあんまりだとバルトロメウはしみじみ溜息を零した。


 それからすぐスミスが戻ってきたが、今日はこのまま帰ってしまってもよさそうだ。今日はまっすぐ店に戻って、波紋と音に関する文献があるかをライブラリに問い合わせなければならない。エドモンドを訪ねるのはまた後日にしよう。実のところ、店に半端なままの依頼が残っている。


「この事は主に報告をあげてもよろしいのでしょうか?」

「あ、はい。進展があったことだけ伝えておいてくれると助かります。もっとも、これ以上どうなるかっていうのは私もまだ分からないけど……あんまり動きがないって思われるのも、どうかと思うので」


 帰りがけ、そんなことを聞いてきたスミスにアムニシェルは快く承諾した。時間がかかるとは思われているだろうが、いつまでも報告が上がらない問うのは問題だろう。しっかりした報告書を書いている時間がない現状で、スミスがその役目を追ってくれるというのならそれを逃す手はない。


 そのまま馬車に乗って普段通り店の近くで降りた二人は、のんびりと店への道を歩く。


「エディには俺から話つけとくぜ。そう何回もアイツの店に行くのも面倒だろ。仕事残ってんならそっちに集中してていいから」

「ありがと……でも少しホッとしてるんだ。これで本当にどうにもならなかったら、どうしようかと思ってた」


 自分の声が僅かに震えていることを、アムニシェル自身も気づいていた。精々自分で考えられることなど限られているし、専門的な道具を使ったことはまず出来ない。今回もエドモンドの助言やバルトロメウの提案がなければこの結果はまず導き出すことが出来なかっただろう。


 つくづく自分はまだ青いのだと、今回のことほど痛感させられたことはなかった。バルトロメウが傍にいてそれが顕著になったような気さえするのだ。元々エドモンドの頭脳や社交性に依存していたのを、全て彼におっかぶせて、その上から皿にのしかかっているような、そんな感覚だ。


「おいおいアミー! アンタなんて顔してんだ。おら、あんまり婦女子がそういう顔するもんじゃねぇ」

「ふ、ふじょしって……難しい言い方しないでよ」

「悪かったな、オッサンなもんで。おい、なーに辛気臭ぇ顔してやがる」


 これまで張りつめていた緊張の糸が緩んだのだろう。

 今にも泣きそうな顔でバルトロメウを見上げるアムニシェルに、年上の見習いは彼女の頭をガシガシと撫でつけ、そのまま抱え上げた。

 突然襲いくる浮遊感に、アムニシェルが悲鳴を上げる。


「え、なにっ! 下ろして!」

「うるせー暴れんな。話は全部店で聞いてやるから暴れるんじゃねぇぞ」

「いい、大丈夫だからッ! 聞いてもらうようなことでもない、し」

「あー?」


 いかにも面倒くさいという顔で、バルトロメウが顔を覗き込んでくる。言いつけ通りゆっくりと彼女の体を下ろした彼は、「何だってんだよ」と頭を掻いた。


「いや、あのね。なんていうかちょっと、情けないなぁって思って。今回はほら、バールとかおじさんに頼りっぱなしだったから」

「なんだンなことかい。そんなもんなぁ、アンタまだ子供なんだぜ? 周りの大人に頼らねぇ方がおかしいの。父ちゃん母ちゃんが居ねぇっていうんなら俺らに頼るのが正解だ。これでもアンタよりよっぽど世間を知ってるつもりだからな」


 お得意のニヤニヤ笑いで、彼は何度かアムニシェルの頭をポンポンと叩いた。


 ――なんで、この人はこんなに強いんだろう。

 頭で思っていたつもりが、ぽつんと口に出してしまっていたらしい。ハッとしたままみるみる赤くなっていくアムニシェルに、バルトロメウはブッと勢いよく吹きだした。


「おーおー、そりゃアレだ。ムショ出ってこともあるが、一番はそうさな、俺がまだ生きてるからだ。だからアンタに恩が返せる。死んだ部下たちがくれた宝物に、アンタはもう一回命を吹き込んでくれたんだ」

「生きてるから?」

「そうだ。生きてりゃ大概のことは何とかなるもんだぜ? アンタだって、まだ14年しか生きてねぇ。もう理不尽に死ななきゃなんねぇ時代は終わったんだ。これから生きてりゃ、俺なんかよりもっと知ってることも増えるだろうしよ」


 最後に思いっきりアムニシェルの背中を叩いて、バルトロメウは人のいい笑顔を見せた。


「アンタみてぇな子供の我儘なんざ、少なくとも俺は迷惑だなんて思わねぇよ。俺の恩返しに手ェ貸してると思って、好きなだけ頼ってくれていいんだぜ」


 顔はまったく似ていないし、性格だって正反対だ。それこそ性格的には彼に似ているエドモンドにも一切思ったことがない。

 ただ何となく少しだけ、バルトロメウがお父さんみたいだと思った。


 叩かれた背中は痛くはなかったがじんわりと温かいような気がして、そこでようやくアムニシェルは息を深く吐いて、二人でほんの少しの間だけ、店の前で笑いあっていた。