一週間後。

 再びアプリコット時計店の前に、黒塗りの馬車が止まった。しかし一週間前と同じように恭しく腰を折るスミスは、アムニシェルとバルトロメウが手に持っていた荷物を一目見て動きを止めた。手袋をはめた手がその荷物の前に伸ばされてピタリと止まる。


「これは、一体……」

「本です」

「本でございますか……アムニシェル様の私物で?」

「はい。家のライブラリにあったものと新しく買い揃えたもの、合わせてざっと20冊くらいなんですけど、一週間かけて色々探してみたんです。あの状態からどうやったら次の段階に持っていくのか、やれるだけのことはやってみたかったんで」


 薄くて持ち運びの便利な本はアムニシェルが持っているが、それを一見すると香りに関する本、音波に関する本、液体の構造――どれをとってもまとまりがない。怪訝な表情をするスミスに、バルトロメウは聞こえみよがしな咳払いを何度か繰り返した。


「えー、オホン。ウチの師匠がよ、ちぃとばかしアンタを借りてぇって言ってんだ」

「私をで、ございますか? 無論、アプリコット様への協力は惜しむなというのが命令でございます。ご期待に沿えるよう、職務を申付けていただければ何なりと致しますが」


 まだ顔を合わせて二回目だが、スミスは割といろいろな表情を見せるようになっていた。今だって訳ありげなバルトロメウの言葉に、自らも声を潜め姿勢を低くして話を聞いていた。


 途中でそれに気付き咳払いを一つ、二人を馬車の中に招き入れて鍵をかけると、スミスは改まってバルトロメウの方を向いた。


「して、私にご命令とは」

「命令なんて大層な事じゃねぇ。……アンタ、相当に学があるんだろ」


 ニヤニヤ笑いでバルトロメウがそういうと、スミスは少し黙って首を傾げた。両家の執事ともなれば相応に知識も幅広くなければならないが、如何せん彼は若い。学がある、どこか専門的な分野の出身ではないかというのは、バルトロメウの賭けだった。


「……シュトレーゼ帝国、 ヴォーヴドワール帝立大学を卒業しております」

「アッチの最高学府じゃねぇか。やるな執事さんよ。しかし、アンタが同郷だとは思わなかったぜ」

「シュトレーゼの出身では、ありません。私は……いえ、私で出来ることがあれば、出来る限りのことはお手伝い致します」


 少し言いよどんだスミスに視線を向けて、アムニシェルはほんの少しだけ、何とはなしに引っかかった瞬間を振り払うように頭を振った。

 とにかく屋敷に着いたら幾つか用意してもらうものがある。書きだしてきた紙を取り出して、それを手袋越しの彼の手に握らせた。


「ここに書いてある物って、すぐに用意できますか」

「……香の調合師は少々難しいかもしれませんが、それ以外であればすぐにでも。ですがアプリコット様、これは一体……」

「ちょっと乱暴になっちゃうけど、壊したりはしませんから。ちょっと叩いたりするのに道具が必要なだけで」


 アムニシェルが用意してほしいと言ったのは、石鹸水に井戸水、金づちや薬草――本と同じであまり統一性がないものばかりだった。しかしスミスは申し訳なさそうに両手を合わせる彼女に了解したとひとつ頷き、今一度すぐに用意させると約束してくれた。


 正直この一週間、寝る間も惜しんで様々な資料を読み漁ってきた。だが、過去ロスト・テクノロジーについて記されたどんな書物にもレーツェル・キューブの存在は書かれておらず、再び万策尽きたというのがアムニシェルの本音である。


 ただ、だからと言って何もしないわけにはいかない。取りあえず思い当たるものを調べて、結果が出なければまた次ということになるだろう。時間稼ぎというには少し拙すぎるが、他の資料が見つかるまではこうする他にない。


「アプリコット様、ジェラルド様、主は本日公務が立て込んでおります。裏からでよろしければ、先日の部屋にすぐお通しすることが出来ますが」

「じゃあ、そっちでお願いします。あと出来れば今後……何度こちらに来ることが出来るかはわかりませんが、今後もそうしてください。市議長もきっとお忙しいだろうし」

「ありがとうございます。では、そのように致しますので」


 馬車が敷地内に入ると、先日通った広い道ではなく少し奥まって影になっている道を進んでいく。大きな屋敷のちょうど真裏にあるのは、使用人専用の小ぢんまりとした入口だ。しかしやはり多くの人間が動いているらしく、庭師の姿しか見えなかった表の正門より慌ただしい声や足音があちこちから聞こえてくる。


「少々むさくるしいところではありますが、お二人にはしばらくの間御辛抱願いたく」

「いいぜ別に。これくらいの方が人間味があっていいんじゃねぇの」


 前回はただただ広い屋敷を突っ切って使用人の為の部屋へ向かったが、裏口からならばほぼ一直線、それもそう歩くこともなく先にあてがわれた部屋へと通された。


「レーツェル・キューブを取って参ります」


 一礼して部屋を辞したスミスに、バルトロメウとアムニシェルは顔を見合わせてその場に座り込む。行儀がいいとは言えなかったが、そんなことにこだわっていたら作業が遅々として進まないのだ。


 持ってきた本を開くと、若い職人は軽く自分の頬を叩いて気合を入れ直す。


「どこまで出来るかわかんないけど、なるべく前に進みたいの。バール、力仕事は任せるね」

「おう、ドンと構えてていいぜ、師匠」


 バルトロメウはニヤリと笑ったが、それは先程スミスに向けたものとは違う、信頼と安心感に満ちた笑い方だった。


「カテゴリゼロ、個体名アムニシェル・アプリコット。アクセスを開始します」


 この前と同じように、アムニシェルはうんともすんとも言わない金属の匣に向けて呪文を唱えた。魔女に伝わる魔法の呪文。長ったらしいコードを口にすると、匣の側面には溝が出来、やんわりと発光する。ここまでは一週間前と同じだ。


 その様子を見て、感嘆の声を上げたのは執事だ。信じられないものを見たかのように、ゆっくり頭が振られる。


「そんな、まさか本当に……これが、ロスト・テクノロジーだとでもいうのか」

「分かりません。でも、多分その可能性は凄く高いと思います。えっと、バール」

「おう」


 スミスが用意した金づちを握りしめたバルトロメウは、遠慮なくそれを振り上げ、勢いよく振り下ろした。金属と同士がぶつかり合う音にあとの二人は思わず顔をしかめたが、打ち下ろす本人はそんなことを意にも留めない。さながら刀匠のようにレーツェル・キューブを打ち据えていたバルトロメウだったが、やがてアムニシェルから止めが入る。


「もう大丈夫。傷とかもないし……うーん、思いっきり叩いても効果はなし、と」」


 それをまたメモに取ると、アムニシェルは難しい顔で匣と向き合った。バルトロメウの力は弱いものではないだろう。見た目からして軍人上がりの彼の腕は筋肉質なのだ。物理的衝撃と言えばあとは鉛の弾丸で射抜くか、高いところから落とすか。

 バルトロメウが匣を撃ち抜くと提案したが、それは流石にとスミスによって却下されてしまった。


「薬草を塗り込んでみるっていうのも試してみたかったんだ」

「どうぞ、こちらの手袋をお使い下さい。職人の方とはいえ、女性の手が荒れてしまうのは痛ましいものです」


 すかさず革の手袋を差し出したスミスに、バルトロメウは鋭い舌打ちを飛ばした。彼は執事として、また紳士として自然にそうしただけであろうが、何ともその仕種が気障ったらしくて癪に触る。ケッ、と息を吐いた彼の身上を知ってか知らずか、アムニシェルはこてんと首を傾げた。


「どうしたの」

「別に何でもねぇよ。ほら、次やるならやっちまおうぜ」


 こればっかりは急いでもどうにもすることが出来ないのだが、取りあえずアムニシェルは溝にそって丁寧に薬草を塗り込んでいった。風が吹き抜けていくとか、不思議な香りがするとかという変化は特にない。スミスがそれを捧げ持っても、おかしなところは何一つ見当たらなあかった。


「これもダメ……あ、お水くれますか? 水に浮くかも試したいし、どっちにしろコレ洗わなくちゃいけないんで」


 塗り込んだ薬草で何が変わるというわけでもないが、もしエドモンドが言ったように香りで人を魅了するならばこれで変化があると考えたのだ。結局徒労に終わってしまったが、これで香りの線はほぼなくなったと考えていいだろう。


 あとは水に浮くのか、それともほかに仕掛けがあるのか――金属という点からして水に浮くとは考えられなかったが、それでもアムニシェルは一縷の希望を捨てずにそっと匣を水が入った桶の中に沈める。


「普通に沈んだな」


 注意深く観察を続けていたバルトロメウが、諦めたような声を出した。ハナから上手くいくとは思っていなかったが、少しくらいは成果があると思っていた。失敗続きに静まり返る大人の男たちの中で、今前を見据えているのはアムニシェルただ一人だ。


「……アプリコット様、やはりこれ以上は」


 残念そうにかぶりを振るスミスは、これ以上の思考は無駄だと言わんばかりに手を差し出した。

 恐らく、このまま失敗したとしても市議長は何も言わないだろう。経験も実績も後ろ盾もない小娘にどうこうできる代物ではなかったと、レーツェル・キューブはまた元の場所で仕舞いこまれるだけだ。触れた者を皆魅了する、不可解な旧時代の遺物として。


「まだ、まだです。まだ試してないことがいっぱいあって、それで諦めるっていうのはちょっと違うと思うの」

「ほう?」

「これは私が任された依頼だから、ある程度は私にも決定権があるってことです。私は、自分の知識や能力が限界になるまで試してみたいから」


 桶の中で鎮座している鈍色の匣を見詰めて、アムニシェルは静かに、だが長く息を吐く。

 出来るだけ注意深く、出来るだけ細やかに、はしばみ色の瞳がじっと水の底を眺めていると、やがてそれが大きく見開かれた。


「バ、バールこれ! これ見て、スミスさんも!」


 突如声を張り上げた少女に腕を引かれる形で、バルトロメウはそのままバランスを崩し床に手をついた。あまりうるさく喚くことがない彼女にしては珍しく、興奮した様子でひっきりなしにバルトロメウの鍛えられた腕を叩いている。


「お、おい、痛ぇ、おいアミー!」

「見て、これ! 私じゃないってば、水の中、これ」

「……これは」


 それまで静かに水底に座り込んでいた金属の匣が、僅かに揺れている。否、揺れているのではなく、それ自体が何かを発しているのだ。細かな波紋が、規則的に生まれては桶の淵に吸い込まれていく。



「震えているわけじゃ、ねぇな。この匣は動いてねぇ」

「音を発しているのですか……まさか、レーツェル・キューブは」


 信じられないものを見るように、スミスは何度か首を横に振る。


「本当に、ロスト・テクノロジーだとでもいうのか……」


 呆然とした響きが執事の薄い唇からこぼれて、水の中に消えていった。