馬車は町を抜け、郊外を走る。


 存外と揺れの少ない車内では、アムニシェルの隣にスミスが、その対面にバルトロメウが座っていた。レーツェル・キューブに関しての資料をまとめてきたというスミスは書類を渡しながら、それ以上は何も言わずに彼女の様子を眺めている。


「……外見は本当に、ただの箱なんですね。仕掛けが作動する手順とか、アクセスの順序とかに決まりはありますか?」

「私も本物を目の前にしたのは二、三度ほどしかございません。申し訳ありませんが触れたこともございませんので、手順などは」

「そうですよね。ごめんなさい。自分で何とかします……あの、現物のスケッチの許可って頂けますか?」

「主が可と言うのならば」


 平坦な口調のスミスに幾つか質問を投げかけるアムニシェルは、バルトロメウから紙を奪って質問の答えを書き込んでいく。どうやらペンばかりは自分のものを用意していたらしい。花を模した装飾のそれは、普段の彼女の持ち物からするとかなり女性らしいものだ。


「現物を見て、許されるなら触ってからじゃないと私もどんなものかわかりません。歯車で動くのか、からくり仕掛けになっているのか、発条が必要なのか……或いは、全く別の何かで作動する仕掛けなのか。私自身もロスト・テクノロジーに触れるのは初めてですが、出来るだけのことをします」

「出来るだけ、では困るのですがね」


 片眉を上げたスミスの無礼な発言に、一瞬バルトロメウの指先が動く。だがそれ以上指が動くことはなく、馬車の中はもう一度静寂が戻った。アムニシェルは、それもそうですよねと苦笑を零している。


 ロスト・テクノロジーと思われる箱の謎を解明したいというのは、好事家であるオズベルク市議長の切なる願いなのだろう。執事であるスミスが焦りを見せるのも分かる。


「……主の関心は、今多くレーツェル・キューブの解明にあります」


 ガラス玉の様な瞳には一片の感情を浮かべることもなく、スミスは首をかしげてアムニシェルを見た。


「あなたには、屋敷の人間皆が期待しているのですよ。アプリコット様」


 馬車はなお走る。

 蹄が石畳を蹴る軽快な音と、アムニシェルが資料を捲る音だけが車内に響いていた。バルトロメウは何も言わず目を閉じて腕を組んでいるが、その指先は腰に吊ったホルダーに触れたままだ。


 それからややしばらく経って僅かに身を捩ったスミスが窓に手を伸ばす。


「ご覧ください。あれがモルデ邸でございます。中央の大きな建物が本館。右側の少し小さな建物が別館……あちらにレーツェル・キューブが保管されております。アムニシェル様の御到着に合わせて主もあちらで待っておりますので、我々はまっすぐ別館に向かうことになります」

「はぁ……でも、大きいですね。いや、当然なんですけど……町からあんまり出たことがないので」

「警備の面からも、人員が配置しやすいのですよ。この辺りは小高い丘になっていますからね」


 広大な敷地にぽつんと立つ屋敷に向かって馬車はなお走る。

 アムニシェルは目を通した資料をバルトロメウに預けて、それから二、三度大きく深呼吸した。見たことのないものを見るとき、触れたことのないものに触れるとき、必ず緊張は伴うものだ。街の中で細々と暮らしてきた彼女にとって、その外にある白亜の豪邸はまるで別世界のようなものだった。


 馬車が止まると、御者の手により外側から扉が開かれる。乗車した時と同じようにスミスが先に降りて手を差し伸べる。手袋越しのそれに触れて地面に降り立つと、振動が少ないとはいえやはり慣れないからか、地面が妙に柔らかいような気がした。


「大丈夫か」

「ん、平気……」


 思わずよろけたアムニシェルの体を、背後に立つバルトロメウが支えた。スミスの方は既に屋敷に向かって歩いている。一歩踏みしめるごとに、地面が本来の質感を取り戻してくるようだ。


 見渡せば、何人もの庭師が色々な場所の手入れを行っていた。止め処なく美しい水の流れる噴水や、色とりどりの花々たち――戦勝国とはいえ、ここまで裕福な生活をしている人間はオムニェル=スタングにもそう多くはないだろう。この場所だけが時間が止まったように優雅な空間を演出している。


「凄い庭、ですね」

「主の趣味です。庭も、動物の剥製も、世界中の珍品も……主の興味をそそるものはすべてこの屋敷に集約されます。ここは、主の為にそろえられた世界なのですよ」


 本館ではなく、小ぶりな別館の前に停められた馬車から玄関へ向かう。小ぶりとはいえ、街中の自分の店の二倍か三倍はありそうな建物だった。見た目は白く荘厳で、市議会の議場を思い出す。僅かに乾いた唇を舐めて、アムニシェルはもう一度息を吐いた。


「あんまり肩肘張りなさんな、アミー。手元が狂うぜ」

「う、うん。ありがとう」


 耳打ちしたバルトロメウはアムニシェルの肩に手を置いて、ポンポンと何度か叩いてくれた。僅かに伝わる手のひらの温かさが、それとなしに勇気をくれるような気がする。


「改めまして……ようこそアプリコット様。ジェラルド様。我等モルデ家使用人一同、主オズベルク・モルデに代わり心よりご来訪を歓迎いたします」


 そして扉が開かれた。


「ジェラルド様、拳銃をお預かりしてもよろしいでしょうか。警備上の問題もございますので……勿論、帰宅時にお返し致します」

「おー、安心しろ、ボロだが弾はまだ詰めてねぇ」


 屋敷の中に足を踏み入れる直前、スミスに拳銃を預けたバルトロメウは、腕組みをしたままアムニシェルの背後に従った。ここまで来ると吹っ切れたのか意外としっかり歩く師匠の背中を見ながら、また生欠伸をかみ殺す……馬車の中、眠気を堪えるのは中々に難儀だったのだ。


「アプリコット様、主が奥で待っております。どうぞこちらに」


 中に入ると、ホールの中で道を作るように使用人たちが肩を並べて頭を下げていた。相変わらず何の驚きもないバルトロメウとは対照的に、アムニシェルは所謂絵に描いたような「お金持ち」の世界に触れているような気がして何とも言えなくなった。

 これから仕事が始まるのだから平常心を保ちたいが、どうしても腰が引けてしまうのは否めない。奥の部屋までたどり着くと、重そうな扉が二人を待ち構えていた。


「オズベルク様、アムニシェル・アプリコット様が到着なさいました」


 四度扉をノックしたスミスに、中からくぐもった許可が与えられる。白手袋がはめられた手でゆっくり扉が開かれると、中では好々爺然としたオズワルド市議長が椅子に座っていた。


 申し訳程度に頭を下げて室内に入ると、市議長は立ち上がってそのままアムニシェルの方に歩いてきた。


「いやはや、急な依頼で申し訳ない。歓迎するよアムニシェルさん。バルトロメウ君とか言ったね、弟子の君も歓迎しよう」


 親しげに握手を求められたアムニシェルがそれに応じると、オズワルドはさらに上機嫌に何度も頷いた。随分とこの前会った時とは印象が違うように思う。所謂余所行きというか、外向きの顔なのだろうか――ぼんやりそう考えたアムニシェルの耳に、明朗な声が飛び込んでくる。


「それでは早速こちらへ来てもらおうか。さあ見てくれアムニシェルさん。これが我がモルデ家が所有するロスト・テクノロジー、レーツェル・キューブだ」


 そう言って、オズワルドは指を鳴らした。すぐさま執事が運んできた硝子のケースの中には、金属製と思しき立方体が収められている。大きさは、丁度アムニシェルの手のひらほどだ。一見して、妙な仕掛けなどは見当たらない。


「えっと、触れてもいいですか? あと、出来ればスケッチも」

「勿論だとも。触れねば謎の解明も何もあったものではないだろう……静かになれる部屋は必要かね? 欲しいものがあるならばこのスミスに言うといい」

「では、もう少し小さな部屋を……汚してしまうかもしれないので」


 中から何が飛び出してくるかもわからないような物体が相手だ。用心に越したことはない。あまりに広い主の部屋から使用人に割り当てられるという一回り小さな部屋に移動したアムニシェルは、腕まくりをしてバンドで袖を留めた。これから公務があるという市議長はその場を彼女に任せて退室していった。部屋の外で待つというスミスもいなくなり、部屋の中には今アムニシェルとバルトロメウしかいない。


「狭いって言っても、もっとこう……物置みたいな場所でよかったんだけどなぁ」

「ここの家じゃコレで狭いって感覚なんだろ。それにしても……まあ粗方予想通りっちゃ予想通りだが」


 まず匣の外見と触った質感を書き込みながら、バルトロメウは苦々しげな舌打ちをした。触れるとひんやり冷たいそれは、金属というよりは川辺の石を想像した方がいいかもしれない。


「趣味が悪ぃなァ……俺こういうのダメなんだよ。これ見よがしに置かれた装飾品とかよ」

「自分だって貴族だったくせに。あ、なんか一か所だけ温かい。これもメモして」

「了解。いや、貴族つっても実家軍閥だったからはもっと質素だったしな。ムショの中思いだすんだわ、ああいう贋作なら死ぬほど作ったぜ?」


 実際屋敷の中の調度品のいくつかが贋作だったとまで見抜く辺り、バルトロメウにとって美術品は見飽きているものなのかもしれない。緻密な筆致で匣の形を描いていく中で、必然的に会話が少なくなりパステルが紙をこする音だけが響いている。


 アムニシェルは硬質なその匣に触れながら、考えうるだけの仕掛けを幾つか試してみた。実は溝が刻まれていて、一定のコードや絵合わせで作動したり、温度の感知機能がついていてある温度以上、或いは以下になったら発動する仕掛けだったり――残念だが、その辺りの有名な仕掛けはどれもハズレだった。温めてみても冷やしてみても、右や左にひねってみても匣はびくともしない。


 こうなってくると逆に面白くなってくるものだ。体の奥底からゾクゾクと湧き上がる様な好奇心がアムニシェルを満たしていくのが分かった。ロスト・テクノロジーかどうかはまだ定かではないが、これはかなり、面白い。


「いいカオしてんじゃん、師匠」

「え、うそどんな顔してたの!?」

「すげぇ悪役みたいな……いや失礼、褒めてんだよ」

「褒めてないよね」


 バルトロメウが茶々を入れたせいで、思わず冷静さを欠いていたアムニシェルの意識が現実に引っ張り戻される。一瞬本気でこの匣に魅入られた、そんな感覚がした。


「あ、コレなんかすごい……オズベルグさんの気持ち、ちょっとわかったかも」

「お? どういうことだ」

「すっごいふわふわして、この匣の仕掛け解き明かしてやるって思ったらね、なんていうか……気持ちいいとは違うんだけど、楽しいっていうか」

「魔物じゃねぇかそれ」


 少しどころじゃなく厄介かもしれない。

 思わず笑顔をひきつらせたアムニシェルに、バルトロメウも乾いた声で笑うしかなくなっていた。