大ぶりの肉が焼ける香ばしい匂いが、家じゅうに漂っていた。


「それにしてもよぉ、アンタロスト・テクノロジーは見たことねぇって言ってたよな。直すにしたってどうやって直すんだ? 本とかに書いてたら意味ねぇじゃねぇか」


 お腹がいっぱいになるやつ、というアムニシェルの要望に応えて、バルトロメウは彼女の顔の大きさ程もある肉を買いこんで焼き始めたのだ。シンプルではあるがこだわりもしっかりあるらしく、海沿いのスレヴド共和国原産の岩塩まで用意してある。


「ほい、完成だ。ソースはつけねぇ方が美味いぜ」


 満足そうにそれを更に盛り付けアムニシェルの前に差し出すと、彼女は丸い目を更に丸くした。確かにガッツリお肉が食べたいとは言ったが、些か大きすぎではないだろうか。それに、肉屋の主人に対する根切りも凄まじかった。商家の跡継ぎでもあそこまでえげつない値引き合戦はしないだろう。


「ロスト・テクノロジーに関しては殆どお父さんが遺した書類とか、あとはもう手探りだよ。お母さんは普通の科学者だったから、探そうと思ってもそういう類いのものは残ってないし」

「書類? アイツんなもん遺してたのか……よく軍部に押収されなかったな」

「戦争が終わってから少しずつ書いてたみたいで、亡くなった後に見つけたの。屋根裏部屋にライブラリがあるんだけどね、そこに」


 大きな肉の塊をようやくナイフで切り終えたアムニシェルは、そこでようやくメインディッシュにかぶりついた。噛むとそこからじんわり溢れて来る肉汁に、思わず感嘆の声が漏れる。


「お肉甘いね! え、え、なんで? すっごく柔らかいし、良いお肉買ったの?」

「そこそこ拘ったが、別段いい肉ってわけじゃねぇよ。ま、企業秘密だ。調理の仕方で変わるもんだぜ」


 スープは朝作ったものだが、塩味もそれに合わせているらしくちょうどいい。父が亡くなってから出来るだけ自炊するようにしていたアムニシェルだが、こうした調理方法に関しては殆ど無頓着だった。


「この前の紅茶といい、アンタ結構可哀想な食生活してんな」

「た、食べられればいいんだよ。美味しいもの食べたい時は、おじさんが作ってくれるし」

「嫁の貰い手ねェぞーそんなこと言ってるとよぉ」


 一言余計なことを言ってアムニシェルを怒らせるバルトロメウのそれは、最早才能と言っていいかもしれない。また顔を赤くする彼女をなだめすかして、バルトロメウも肉の塊にかじりついた。うまい、と納得したような声で何度か頷く。


「肉汁冷めたら目も当てられねぇからな。熱いうちに食えよ」

「た、食べきれないかも」

「残したら食ってやるから。大丈夫だ、育ち盛りなんだから入る入る」


 普段一人で食べる食卓には、珍しく笑い声が響いている。アムニシェルは基本的に目の前の肉と格闘するだけなのだが、彼女がエドモンド以外の人間と食事を共にすることは今までほとんどなかったのだ。


「ん、あ……そうだバール。市議長のお家に行くとき、何か筆記用具持ってきてね。紙とペン、出来れば絵が描けるようなやつ」

「なんだ、図面でも引くのか?」

「図面も引くけど、どんな形でどんな特徴があるとか、全部スケッチしてほしいの。私絵とかあんまり得意じゃないから、バールは手先が器用なんでしょ?」


 半分ほど残った肉をまた小さく切って、アムニシェルは思い出したようにそんなことを言った。師の提案に首を傾げたバルトロメウは一応絵ならかけると頷くものの、その意図を理解しているわけではないようだった。頭の上に疑問符が浮かんで見える。


「流石に本物のロスト・テクノロジーだったら、工房に持って帰ってきてってわけにもいかないでしょ? だから、触った感覚とか、ここはこういう仕掛けかもしれないとか、そういうのを全部メモしたいんだ。そしたら家に帰ってきても調べられるでしょ?」

「おぉ、道理だ。しかしそこまでするとは、仕事熱心だな」

「バールの銃もそうだけど、初めて触るものってどうしたらいいかわかんないじゃない。それに職人として、全力で依頼に向き合うのは当然だよ」


 真摯な意見になるほどと相槌を打つバルトロメウは、自分の食事を全て平らげたらしい。水を飲みながら、椅子の背もたれに腰かけて深く息を吐く。


 彼女のこういう所は、父親にそっくりだ。戦場で何度かまみえただけの間柄ではあるが、ある種狂気じみた好奇心などは正に遺伝だろう。


「アンタかなり両親に似てるんだなァ。見た目は母ちゃん似なんだろうが、性格は完全親父譲りだろ」

「え、ホント!?」

「おいおい俺ァ褒めてねぇよ……」


 脱力したようなバルトロメウの声を聞きながら、アムニシェルは最後のひとかけを口に放り込む。存外、食べようと思えば何とかなるものだった。味付けがあっさりしていて飽きの来ないものだったのも良かったかもしれない。


「とにかく、それの用意だけお願いね。多分朝早いから、寝坊しないで」

「おう、任せろ」


 空いた食器を片付けながら指示を飛ばす師匠に、バルトロメウはまた頷いて水を呷った。



 上品な封蝋が押された手紙がアムニシェルの元に届いたのは、オズベルク市議長がやってきてから数日置いてからのことだった。彼名義での手紙ではあるが、恐らく送ってきたのはマルドゥイユ市議の時と同じく秘書や執事だろう。


 三日後の朝方に迎えを寄越すというその達しを何度も読み返したアムニシェルは深く息を吐いて、軽く頬を叩いた。本格的な契約やその他の話し合いは、それから行われるということだろう。バルトロメウが住んでいる安宿に連絡を取って必要なものを用意するように頼むと、屋根裏のライブラリに向かう。


 その日、アムニシェルの家の明かりは夜遅くになるまで灯っていた。



「随分早くに呼び出してくれてんじゃねぇの」


 三日後、生あくびをかみ殺しながらやってきたバルトロメウは、彼女の言いつけ通りしっかりとパステルと紙を持参していた。新品のそれを買った料金は必要経費として先日彼女が渡しておいたものだが、年上の弟子はやはりそれを嫌がった。とはいえこればかりは、やっぱりどうにもしようがない。


 家の前まで迎えに来ると指定してきた手紙を握りしめて、アムニシェルはやや忙しなさげに周囲を見回していた。格好は作業着を兼ねて動きやすいジャンパースカートに、普段と同じように髪を高い位置で一つに束ねている。服装のマナーなどは詳しく知らなかったし、こればかりは男性のエドモンドやバルトロメウに聞いたところで無駄である。一応、クローゼットの中で一番大人っぽく見えるであろうシンプルな黒地のものを選んできた。


「んな硬くならんでも、相手はたかが市議長だろ? そんなんじゃ妙なところでポカるぞ」

「そ、そりゃバールから見たらたかがかもしれないけどさぁ……」


 時々忘れそうになるが、彼はそもそも平民の生まれではないのだ。帝政がまだ残っているシュトレーゼで考えると、市議たちはそれぞれの領地を守る地方豪族、州政府の下で彼らをまとめる市議は中級貴族と考えるのが妥当だろう。州政府の議長ともなれば王家に連なる公爵家と考えることも出来る。工業ギルドでも下っ端のアムニシェルからしてみれば、やはり彼らは雲上の存在である。


「もっとしゃっきりしねぇと舐められても知らねぇぞ。アンタただでさえ子供ってだけで軽んじられるんだ」

「わかってるよそれくらい――ちょっと緊張してただけだもん」


 唇を尖らせたアムニシェルはそう言って、腕を後ろに回して手を組んだ。まだ朝もやのかかる街中は静かで、耳をすませば鳥の鳴き声に交じって硬いなにかがぶつかり合う音が聞こえてきた。


 これは、蹄の音か。


「おう、来たみたいだぜ」


 もやの中を潜り抜けるように、足音はどんどん大きく近づいてくる。一定のリズムで刻まれるそれを聞きながら、アムニシェルは眩暈すら覚えていた。


 馬車なんて遠出する時の乗合馬車くらいしか見たことがない。それだって乗ったことは幼い頃に一度だけだし、確か乗り心地は最悪も最悪、父の話では顔を真っ青にした母がこの世の地獄だと評したほどであるという。


 だがそれも、安いが年代物の馬車の場合のみである。

 戦時中の技術を利用した蒸気自動車がどこかの国で開発されたようだが、それでも個人所有の馬車などというのは富の象徴だ。


 青毛の馬が引く馬車は黒く重厚に塗りつぶされており、車輪が巻き起こす風に思わず目を閉じる。どうやら、目の前で停車したようだ。


「え、え、うそ……馬車って」

「嘘もなんもねぇ、相手は市議クラスの人間だ。これくらいおかしかねェだろ」


 やや乱れてしまった髪を撫でつけながら呆然とするアムニシェルに、バルトロメウが溜息をつく。とはいえ、彼も少なからず驚いているようだった。間近で聞こえる声がかすかに震えている。


 馬車が放った残響が消え街の中に再び静寂が戻る頃に、その重たい扉はゆっくりとあけられた。中から現れたのは当然だが市議長ではなく、若い執事然とした男だった。


「アムニシェル・アプリコット様でございますね。そちらはお弟子様のバルトロメウ・ジェラルド様」


 針金のような細身の男は二人の顔をそれぞれ確認した後、綺麗に腰を折って一礼した。精巧な機械細工を彷彿とさせるようにその動作には隙が無く、思わずアムニシェルは一歩後ずさった。


「モルデ家執事のスミス・アディオンと申します。主の命によりお迎えに参りました」


 ほとんど感情を感じさせない声でそう言う執事に、慌てて頭を下げる。相変わらずバルトロメウは悠然と腕を組んだまま何も言わなかったが、スミスはそれに対して怒るわけでも呆れるわけでもなく一歩下がり、まずアムニシェルを馬車の中に招き入れた。


 まるで、伝説上の機械人形みたいだ。実際にそんなものがあったらそれこそロスト・テクノロジーの最たるものだろうが、滅私を徹底するその挙動は思わず彼女にそれを彷彿とさせた。


「アプリコット様、どうぞ足元にお気をつけください。ジェラルド卿はこちらへ……」

「いいぜ別に、敬称なんてつけなくてもよ」


 わざとらしくニヤニヤ笑って肩を竦めるバルトロメウにも、スミスは一切顔色を変えることはなかった。